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日蓮大聖人・池田大作

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各都合同研修会(3) リーダーは勇気と希望を皆に贈れ

2005.8.19 スピーチ(2005.8〜)(池田大作全集第99巻)

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3  悔いなき一生を、庶民とともに愉快に、勇敢に
 御書を拝しつつ、生死の問題について、少々、語っておきたい。生と死を真剣に見つめてこそ、今を悔いなく生きることができるからだ。
 日蓮大聖人は、こう仰せである。
 「死後の地獄等という苦悩の世界に行ったならば、王の位も、将軍の位も、何の役にも立たない。獄卒(地獄の鬼)の責めに合う姿は、猿回しに回される猿と変わらない。こうなった時は、どうして名聞名利や我慢偏執(我を頼んで心が傲り、偏ったものに執着すること)の心でいられょうか」(御書1439㌻、通解)
 死は、誰人も逃れられない、厳粛なる事実である。死を前にした時、人間の虚飾は、すべて、はぎ取られる。大富豪も、権力者も、庶民もない。財産や肩書を、死後の世界に持っていくわけにはいかない。生きている間に、自分はいったい何をなしたか――その一点が、厳しく問われるのである。この限られた人生を、一個の人間として、どう生きるか。この無常の人生の中で、いかにして永遠につながる、価値ある何かを成し遂げられるか。それこそ、最も根幹の問題である。
 私は、体が弱かったせいもあり、若いころから「生と死」の問題を見つめながら生きてきた。
 病に苦しみながら、激しい法戦に明け暮れる私に、ある時、戸田先生は言われた。
 「いつ臨終になっても、悠然と、従容たる人生であれ、信心であれ」と。
 私は、この師の言葉のままに進んできた。地位や名声といった、はかない、かりそめにすぎないものなど、まったく眼中になかった。「愉快に、勇気をもって、庶民と一緒に、この一生を生きぬいていきたい」――こういう心であった。戸田先生も、「それが最も正しい生き方である」と、深くうなずいてくださった。
 この決意で無名の庶民の中に飛び込み、病める人、貧しき人、わが宿命と勇敢に戦っている人たちと肩を組み、励まし合いながら生きてきた。戸田先生の事業が失敗し、最も苦境にあった時は、すべてを捧げ、どん底の中で先生を支えぬいた。進学の希望もなげうって働きに働き続けた。
 現在、私は光栄にも、皆さまの代表として、世界から、数々の栄誉をお受けしている。すべて、不惜身命で師匠を守り、広宣流布に戦ってきたがゆえに、御本尊からいただいた功徳だと思っている。
4  「臨終只今」と今を勝ちゆけ
 生きることはすばらしい。長寿はもちろん、すばらしいことである。その上で肝心なのは、「どれだけ生きたか」よりも、「どう生きたか」である。結論から言えば、妙法を唱え、弘めながら、人のため、法のために生きることこそ、最も尊い生き方なのである。そうやって生きぬいた人は、最高の満足と充実を感じながら、人生の最終章を飾ることができる。
 大聖人は、妙法を信仰する人の臨終について、こう言われている。
 「(もしも)今、霊山にまいられたならば、太陽が昇って、十方の世界を見晴らすようにうれしく、『早く死んでよかった』と、お喜びになられることでしょう」(御書1480㌻、通解)
 「早く死んでよかった」とは、少し不思議に感じる御文かもしれない。大聖人は、妙法を持った門下に対して、決して死を恐れる必要などないことを教えてくださっていると拝されよう。
 さらに、次のようにも仰せである。
 「退転することなく仏道修行をして、最後の臨終の時を待ってごらんなさい。妙覚の山に走り登って、四方をきっと見るならば、なんとすばらしいことであろうか、法界は寂光土で、瑠璃をもって地面とし、黄金の縄をもって八つの道を仕切っている。天から四種類の花が降ってきて、空には音楽が聞こえ、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、心から楽しんでおられる。われらも、その数の中に連なって、遊戯し楽しむことができるのは、もう間近である」(御書1386㌻、通解)
 なんと荘厳な世界であろうか。大聖人の御言葉に、絶対に嘘はない。私たちが歩んでいるのは、「生も歓喜」「死も歓喜」の大道である。この絶対的な幸福境涯を確立するためには、何があろうと妙法を唱えぬき、「今」を真剣に戦うことである。「臨終只今」の覚悟で、「今」を完全燃焼させていくことである。きょう一日を、悔いなく戦おう!

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