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日蓮大聖人・池田大作

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全国最高協議会(6) 創価は「皆を歓喜させる」世界

2003.8.5 スピーチ(2003.7〜)(池田大作全集第95巻)

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2  アメリカ・ルネサンスの哲人、エマーソンの言葉が私は好きだ。
 「毅然として頭を上げるがよい。私の生命は飾り物ではなく、それを生きるために与えられたのだ。私は至るところで真実を、まったき真実を語ることを、自分の義務だと思う。私は、人々が私のことをどう思うかということでなく、私の真の使命は何かということを真剣に考えなければならない」(トルストイ『文読む月日』〈北御門二郎訳、筑摩書房〉で紹介)
 人は人。自分は自分。頭を上げて、胸を張り、わが使命を毅然と果たしゆくことだ。
3  広布に戦う心が青年の証
 人生は毎日が新しい出発である。
 私は先日、退職する方に「″去って去らず″の心で」と励ましを贈った。
 「一生、いな永遠に同志だ。一緒に戦おう!」――温かく声をかけながら、ともに進みたい。
 年齢は重ねても、若々しく、広宣流布をめざす前進のリズムをつくってまいりたい。
 人生に定年はない。信心に定年はない。広宣流布へ戦う心が、青年の証である。
 牧口先生は七十歳を超えても、「われわれ青年は」と、弟子たちに呼びかけられた。
 人間の心は微妙だ。子どもも大きくなり、経済的にも安定した。そこそこに、やっておけばいい――そういう心では、人生の最終章は立派に飾れない。
 戦う心を失えば、五十歳でも″老人″だ。炎の心で前進する八十歳の″青年″もいるのだ。
 広宣流布の戦いに遠慮など必要ない。自由自在に、生き生きと、生涯、創価の同志とともに歩みぬいてまいりたい。
4  かつて私は、フランス学士院から招請を受け、講演を行った。(一九八九年六月十四日、「東西における芸術と精神性」と題して〈本全集第2巻収録〉)
 知性の最高峰として名高い同学士院の会員に、詩人のラ・フォンテーヌがいる。彼の有名な『寓話』に、こうあった。
 「いつの世にも/庶民は苦しんできたのだ、おえらがたの愚劣な行いのために」(今野一雄訳、岩波文庫)
 権力者の愚かな行動。これこそ諸悪の根源だ。そのせいで、どれだけ民衆が苦しんできたか。
 二十一世紀こそ、その転倒を正す時である。
 『寓話』には、こういう警句もあった。
 「他者を陥れんと考える者は/しばしば已れ自身を陥れる」
 「恩知らずはみんな、/ いずれみじめな死にかたをする」(同前)
 嫉妬の人間、忘恩の人間は、みずからの人生を破壊しているのである。
 人生、総仕上げが大事だ。ひとたび決めた、わが道を、生涯、走りぬくことだ。まずは二〇〇五年をめざして、敢然と、勝利の指揮をとっていただきたい。
5  大難を乗り越えよ
 日蓮大聖人は、流罪された佐渡で、弟子たちに厳しく仰せである。
 「日蓮を信じているようであった者たちが、日蓮がこのような身になると疑いを起こして法華経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教え諭して自分は賢いと思っている。こうした愚か者たちが、念仏者よりも長く阿鼻地獄にいるであろうことは不憫としか言いようがない」(御書960㌻、通解)
 戸田先生は語っておられた。戦時中、牧口先生が投獄された時のことである。師のそばにいた大幹部が退転した。ある者は、大恩ある師匠を「牧口の野郎」と罵倒し、去っていった。
 一番の弟子のような顔をしながら、大難を受けると、手の平を返すように師匠を誹謗する。恩を仇で返す。これこそ敵のなかの敵ではないか。
 戸田先生は叫んだ。
 「よし、俺が牧口先生の仇を討ってやる!」
 また、牢に入れられ、退転した大幹部もいた。その一人は、面会に来た夫人が、信心をやめて早く牢から出るように手の平に書いて見せた。そして退転したのである。
 戦後、そのことに話がおよんだ時、戸田先生の怒りは、すさまじかった。
 「こんな人間が、創価学会員か! 牧口先生を裏切るとは!」
 悔しくて悔しくてならない、あの先生の姿が忘れられない。
 大聖人は、「もし恩を知り、心ある人々であるならば、私が杖で二回叩かれるうち、自分が一回は代わりに叩かれるべきではないか」(御書1450㌻、通解)と仰せである。
 そのご精神と反対に、恩師を裏切り、学会を裏切り、みずからの信念を裏切った人生の最後が、どれだけ惨めか。それは、皆さまがよく知っておられるとおりである。
 広布の途上には大難がある。それを乗り越えるのだ!――この深き心で戸田先生が徹底して鍛えてくださったのが私であった。青年部に未来を託されたのである。
 日蓮大聖人は仰せである。「この法門についた人は数多くいるけれども、公私ともに大難がたびたび重なってきたので、一年、二年はついてきたものの、後々には、皆、あるいは退転し、あるいは反逆の矢を射た。また、あるいは身は堕ちなくても心は堕ち、あるいは心は堕ちなくても身は堕ちてしまった」(御書1180㌻、通解)
 そうしたなか、あなたは信心が深かったから、退転することなく、勝利の実証を示していると、大聖人は、模範の門下を賞讃しておられる。
 信心の根が深ければ、人生の栄光の枝は、必ず豊かに茂っていく。
6  難こそ誉れ、難こそ安楽
 敵がいるから、成長できる。自分自身が強くなる。大難に打ち勝って、仏になるのだ。
 大聖人は仰せである。
 「釈迦如来のためには、提婆達多こそ第一の善知識である。今の世間を見ると、人を良くするものは、味方よりも強敵が人をよく成長させるのである」(御書917㌻、通解)
 大難の真っただ中で、こうも仰せである。
 「仏になる道は、必ず身命を捨てるほどのことがあってこそ仏になるであろうと思われる」(御書891㌻、通解)
 死身弘法の人。その人こそ、真実の法華経の行者である。
 大聖人は宣言された。
 「日蓮は、世界第一の法華経の行者である。その日蓮を謗り、怨む者の味方になるような者は、世界第一の大災難に遭うであろう」(御書260㌻、通解)
 御本仏の大確信が轟いている。
 「第六天の魔王が私の身に入ろうとしても、かねてからの用心が深いので身に寄せつけない。ゆえに、天魔は力およばずに、王や臣下をはじめとして良観などの愚かな法師たちに取りついて、日蓮を怨むのである」(御書1340㌻、通解)
 「真実の法華経の如説修行の行者として師となり、その弟子檀那となるならば、三類の敵人が必ず現れるのである」(御書501㌻、通解)
 正義ゆえに迫害されるのは、最高の名誉だ。いいかげんな、遊び半分の覚悟では、大事は成し遂げられない。
 憎まれ、けなされ、迫害されても、毅然と進むのが、真実の信仰者である。
 難こそ誉れ。
 難こそ安楽。
 これが日蓮大聖人の師子吼であられた。
 その魂を継いだ世界一の戸田先生に仏法を学んだ私である。人間の真実は、すぐわかるつもりだ。
 本当に広布のために戦った人間を、最高に讃えたい。永遠に守りたい。
 御聖訓には、こうも教えられている。
 「種々の大難が雨のように降り、雲のようにわいても、法華経のためであるので、苦をも苦とも思わない」(御書1112㌻、通解)
 「法華経の中で仏(釈尊)は次のように説かれている。
 私(釈尊)が死去した後、後の五百歳に、すなわち二千二百余年が過ぎて、この法華経が全世界に広宣流布する時、天魔が人の身に入り代わって、この法華経を弘めさせまいとして、たまたま(法華経を)信じる者に対し、あるいは罵り、暴力を振るい、住む所を追放し、あるいは殺すなどのことをするであろう。
 その時、まず先陣を切って戦う人は、三世十方の仏を供養するのと同じ功徳を得るであろう」(御書1415㌻、通解)
 広宣流布こそ、永遠の世界平和の道である。その先陣を切る功徳は無量無辺である。
7  勇気で勝て! 祈りが武器
 勇気!――これが人生に勝つ鍵である。
 チャーチルの伝記の著者、ビベスコ公爵夫人は書いている。
 「勇気には、もうこれで充分ということは決してない。勇気は私たちみんなに、ひとりひとりに必要だ。すべての形の、すべての変化の、すべての種類の勇気が、私たちの性格により、また条件によって必要だ。私たちには毎日勇気がいる」(『チャーチルと勇気』安堂信也訳、東京創元社)
 苦しい時、つらい時、それを乗り越える力は、勇気だ。
 大聖人は仰せである。
 「一生が過ぎゆくのは、わずかな間であるから、どんなに三類の強敵が重なろうとも、決して退く心があってはならない。恐れる心があってはならない」(御書504㌻、通解)
 人生は、勝つか、負けるかである。大事なのは、百の論議よりも「勝つ」ことだ。一生懸命に祈り、苦難を乗り越え勝利した――その数々の実証は、創価の歴史に燦然と輝いている。
 祈りが武器である。真剣に、祈って祈って祈りぬき、努力を貫き、勝つしかない。めざすは「勝利」の二字しかない。
 中国の女性リーダーの宋慶齢女史は言った。
 「全国のあらゆる力の団結は、われわれの無敵の力の源泉なのです」
 「最後の勝利が必ずわれわれの側にあることは、疑いの余地がありません」(『宋慶齢選集』仁木ふみ子訳、ドスメ出版)
 最後の勝利をわれらの手に! その日をめざし、異体同心の仲良き団結で前進したい。
 (長野研修道場)

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