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日蓮大聖人・池田大作

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第五回本部幹部会、「聖教新聞」創刊五十… 創立百周年の五月三日へ出発!

2001.4.25 スピーチ(2000.11〜)(池田大作全集第92巻)

前後
13  サンガの原義は「広宣流布の集い」
 大聖人は仰せである。
 「日蓮は、そうした妻子ももたず、魚や鳥も食べず、ただ法華経を弘めようとするゆえに、妻子ももたないのに犯僧という名が日本国中に満ち、ケラやアリさえも殺さないのに、悪名が天下に、はびこっている」(御書936㌻、通解)と。
 ただ民衆を救わんと、もっとも崇高な行動を貫かれた大聖人が、嫉妬によってであろう、こともあろうに国中の人々から、もっとも醜い汚名をかぶせられてしまった。しかし大聖人は、すべて法華経に説かれたとおりの難であり、「うれしさは、とても言い尽くすことはできない」(同㌻、通解)と、悠然と仰せであった。
 この崇高なる御精神にまっこうから違背し、遊蕩と堕落のかぎりを尽くしてきたのが日顕であり、日顕宗である。この事実を、後世に明確に残しておきたい。
 戸田先生は、よく言われていた。
 「僧侶といっても、妻帯して、われわれと同じものを食べ、同じものを着ている。そして、同じ南無妙法蓮華経を唱えている。われわれとまったく同じではないか。ゆえに、僧が上などと威張るのではなく、われわれと一緒に、平等な立場で、広宣流布に戦っていくのが本当の僧侶である」
 きょうは、戸田先生の言葉のとおり、創価学会と一体で戦っておられる「広宣流布の僧侶」の皆さまを、お迎えできてうれしい。(拍手)
14  大聖人が仰せの理想の「和合僧」は、現代では、創価学会以外にない。
 「和合僧」の「僧」を、短絡的に「僧侶」とみるのは間違いである。「僧」とは本来、仏法を正しく持ち、広宣流布に進む人々の「集まり」をいう。
 もともとは、釈尊の仏法のもとに集まった同志を、当時のインドで「僧(僧伽、サンガ)」と呼んだのである。
 (「僧」は本来、「仏教修行者の集まり」を意味する「サンガ」の音訳「僧伽」を略したもの。中国においては、「僧」が出家した個人をさすようになった)
 この原義に照らせば、「広宣流布の信心」ありてこその「僧」である。姿形ではない。広宣流布に正しく進むわれわれこそが、姿は有髪であっても、真実の「和合僧」なのである。(拍手)
15  終わりに、「インドの詩聖」タゴールの言葉を引きたい。
 「他人を中傷して自己満足にひたるのは、弱者の気晴らし」(『タゴール著作集』8、森本達雄訳、第三文明社)と。
 小さな人物が、偉大な人間を中傷するのは、歴史の常である。
 大聖人は仰せである。「愚人にほめられたるは第一のはぢなり
 戸田先生は言われた。「大聖にほむらるるは、一生の名誉なり」(「青年訓」)と。
 これからも、この大確信で戦ってまいりましょう! お帰りになられたら、同志の皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えください。きょうは、おめでとう! ありがとう!
 (東京戸田記念講堂)

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