Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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婦人部代表協議会(「紅梅会」「常磐会」… 学会活動で「黄金の自分」を磨け

1998.1.25 スピーチ(1997.5〜)(池田大作全集第88巻)

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13  「使命」を果たせば「境涯」が上がる
 学会の役職の仏法上の意義はどこにあるのか。釈尊の仏法では、「六即」とか「五十二位」とか、菩薩の位を細かく論じた。
 日蓮仏法では、受持即観心であり、直達正観であるから、段階はない。(どちらも、″御本尊の受持によって、直ちに仏界を得られる″こと)
 それを前提にして、やはり「境涯の成長」の段階がある。「境涯」を上げるためには、具体的には、自分の「役職」をやり切っていくことである。
 少し難しいが、「境智行位」という法門がある。
 簡単にいうと、「境」とは獲得すべき真理である。広げて言えば、客観的な基準とか、客観的な目標に当たる。学会の役職で言えば、その役職に伴う「果たすべき使命」が「境」に当たるであろう。
 支部の副婦人部長であれば、その果たすべき「使命」と「責任」がある。それが「境」である。
 その使命を果たすために、自分の「智慧(智)」を尽くし、「行動(行)」を尽くしていく。そこに、結果として、仏法上の「位」が決まっていく。すなわち生命の「位」が定まっていくのである。これが「境智行位」である。
 ゆえに、役職が高くても、その使命を果たしていなければ、何にもならない。実際の「仏法上の位」は低い。だから役職だけではわからない。役職が低くても、広宣流布へ、偉大なる貢献をしている人が、大勢いらっしゃる。ゆえに、役職で人を見るのは、大きな誤りである。
 しかし反対に、役職を軽視することは、広宣流布の組織を軽視することに通ずる。
 自分は自分として立派に、役職の「責任(境)」を果たしていこう、自分自身の立派な歴史を残していこう――と「智」と「行」を尽くしていくところに、生命の「位」が上がっていく。
 ここに、「役職」の重大な意義がある。その意味で、役職は「人間向上への飛躍台」なのである。
14  大聖人は厳しく仰せである。
 「いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・めざれば得道ありがたし」――いかなる大善をつくり、法華経を千万部も読み、書写し、一念三千の観念観法の悟りを得た人であっても、法華経の敵を責めなければ、それだけで成仏はないのである――と。
 敵と戦う「広宣流布への行動」なくして、仏法はなく、成仏もないのである。広宣流布のために「どうしようか」と悩み、苦しみ、戦った人が最後には勝つ。これが五十年間、あらゆる人生の軌跡を見てきた私の結論である。
15  世間の「位」は幻、仏法の「位」は永遠
 有名人が偉いのか。断じて、そんなことはない。
 地位や学歴のある人が偉いのか。絶対に、そうではない。
 地道に、一生懸命、広宣流布に励んでいる無名の庶民がいちばん、偉いのである。
 「広宣流布」は日蓮仏法の根幹である。根本目標である。広宣流布への不惜身命なくして、大聖人の仏法はない。学会活動こそが、日蓮大聖人の仰せの通りの行動なのである。
 これまでも今も、有名になったり偉くなったりすると、信心の「心」が堕ち、「身」が堕ちて、不惜身命がなくなっていってしまう。そういう人間が、あまりにも多い。
 戦時中の弾圧の時も、そうであった。戦後の戸田先生の事業の挫折の時も、そうであった。
 それまで、「牧口先生、牧口先生」「戸田先生、戸田先生」と言っていた人間が、手のひらを返して、「牧口の野郎」「戸田の野郎」と、ののしった。人間の心は、怖い。
 その中で、ただ一人、戸田先生だけが大闘争をし、大勝利して、牧口先生の仇を討った。
 私だけが一身をなげうって戸田先生を守り、学会を守り支えて大発展させた。戸田先生は本当に喜んでおられた。先生は幸せであった。
 ある時、戸田先生は、「いわゆる″偉い人間″なんか信用できない。いざというときに、臆病で、逃げる。卑怯な、インチキの人間が多いものだ。いちばん信用できるのは、民衆だ。けなげな婦人部をはじめ、無名の庶民なんだよ」と強く強く語っておられた。
 本当の信仰に「世間の位」は関係ない。それは幻にすぎない。
 信仰者は「無冠の帝王」である。そして、正法を弘める人は、生々世々、生命の「王者」となり、「女王」となっていく。
 その証明は、必ずや今世で現れるにちがいないと申し上げ、祝福のスピーチとしたい。
 (東京・新宿区内)

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