Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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各部協議会 日本の夜明けをわれらの勝利で

1998.1.4 スピーチ(1997.5〜)(池田大作全集第88巻)

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10  御本尊は「信心の本尊」
 私どもは日寛上人御書写の御本尊を拝している。その日寛上人が″わが形見とせよ″と言われたものがある。すなわち、上人の「遺言」であり、「これだけは忘れるな」と叫ばれた一点である。
 それは「観心の本尊抄」の「の」という一字であった。
 「のの一点は最大事の中の大事なり、是則ち一点多生たしょう(=今世も来世もずっと先の世まで)を助くる……返す返す日寛が形見かたみとして汝等信心に之を伝へよ」(「日詳聞書」)
 また「日本国の学匠未だのの一点に達せず」(「宥弁略記」)――日本の学者は、まだこの″の″の一字の重要性がわかっていない――と。
 (すなわち「観心本尊抄」の題号を、古来の学者が「心を観る本尊抄」「心の本尊を観る抄」などと読んできたが、これでは大聖人の本尊の本義を誤ってしまうの意)
 どうして、「の」の一字が、それほど大切なのか。
 結論して言えば、日蓮仏法の御本尊は、「教相の本尊」ではなく「観心の本尊」なのである。それは、すなわち「信心の本尊」にほかならない。これを遺言されたのである。
 (大聖人の仏法においては、「受持即観心」で、御本尊を受持する「信心」が即「観心」となる。ゆえに「観心の本尊」とは「信心の本尊」と言える)――
 すなわち、「信心」がなければ、偉大なる「御本尊」の力は、まったく出ない。また「信心」が狂えば、「御本尊」を持っていても、功徳どころか罰を受ける。
11  日蓮大聖人は、厳として仰せである。
 「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」――この御本尊も、ただ信心の二字に収まっているのである――と。
 また「信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり」――正しき信心の血脈がなければ、法華経(御本尊)を受持しても功徳はない――と。
 かつて、「私は、だれだれから直接に御本尊をいただいた」とか「うちの御本尊は特別だ」とか自慢する人がいた。戸田先生は、そう言う人に対し、厳しく言われていた。
 「信心がなければ、宝のもちぐされだ」また「御本尊に信心を直結させなければ、かえって危険である」と。
 「信心」とは、「行動」である。「行躰即信心」と言われる通りである。
 大聖人、日興上人の仰せの通り、広宣流布へ行動しているのは、断じて創価学会だけである。日寛上人の遺言を忘れて「信心」をなくした宗門には、「御本尊」の力用はまったくない。
 なぜなら、大聖人が「此の御本尊全く余所に求る事なかれ」――この御本尊は全く他所に求めてはならない――、「只信心の二字にをさまれり」と仰せだからである。
 御聖訓に照らせば、広宣流布に前進する創価学会にのみ、真の「観心の本尊」は、ましますのである。
12  人生を振り返ってみて、いちばん幸福な時はいつか。それは「戦っている時」である。その時は苦しいようであっても、後から「あの時がいちばん輝いていた、幸せだった」とわかる。
 ある世界的大富豪も、「貧しくても、夢中になって奮闘していたころが、いちばん幸せだった」と語っていた。
 完成した後よりも、建設の時のほうが楽しいし、幸せであり、価値がある。
 日蓮仏法も「本因妙」の仏法である。結果を目指して奮闘している、その″本因″の姿にこそ、「幸福」は躍動しているのである。
 牧口先生は「羊千匹よりも獅子一匹」と言われた。
 本当にそう思う。真理である。すばらしい言葉である。
 本年、自分自身が猛然たる「広宣流布の獅子」となって、楽しく前進また前進していただきたい。
 (東京牧口記念会館)

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