Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第9回本部幹部会 第九回本部幹部会

1997.3.5 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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24  仏法は「生も歓喜」「死も歓喜」の軌道
 本日は、全国の儀典部の代表も参加されている。日ごろからの尊いご活躍に、心から感謝申し上げたい。
 日蓮大聖人は、長く病床にある夫をもつ婦人の門下を温かく励まされている。「ご主人は、成仏の軌道に入ったのだから何も心配ありませんよ」と。御本仏の大慈大悲である。
 「励まし」が大切である。励ましは「慈悲」の表れである。
 大聖人は仰せである。
 「ただいまに霊山にまいらせ給いなば・日いでて十方をみるが・ごとくうれしく、とくにぬるものかなと・うちよろこび給い候はんずらん
 ――もしも今、霊山にまいられたならば、太陽が昇って、十方の世界を見晴らすように、うれしく、『早く死んでよかった』と、お喜びになられることでしょう――。
 見わたせば、世界はすべて輝きわたっている。ああ、何と素晴らしい、何とうれしいことか――そうなるのだよと仰せである。
 まさに「生も歓喜」「死も歓喜」である。(一九九三年九月、ハーバード大学での講演「二十一世紀文明と大乗仏教」で仏法の「歓喜の生死」観を論及。本全集第二巻収録)
 「中有の道にいかなる事もいできたり候はば・日蓮がでし弟子なりとなのらせ給へ」――中有ちゅうう(臨終から次の誕生までの間)の道にあって、どんなことが起きようとも、『私は日蓮の弟子である』と名乗りなさい――。
 「法華経を信じ候事は一閻浮提第一の聖人なり、其の名は十方の浄土にきこえぬ、定めて天地もしりぬらん・日蓮が弟子となのらせ給はば・いかなる悪鬼なりともよもしらぬよしは申さじとおぼすべし
 ――(日蓮は)法華経を信ずることにおいては、世界第一の聖人です。その名は十方の浄土にも聞こえています。必ず天も地も知っているでしょう。(ゆえに)あなたが『日蓮の弟子である』と名乗られるならば、どのような悪鬼であろうとも、よもや知らないとは言わないであろうと、確信しておかれるがよい――。
 十方、すなわち全宇宙には、地球のような星も何十億、何百億以上、あるに違いない。その全宇宙を貫く根本の法が妙法である。ゆえに、たとえ亡くなって、どこに行こうとも、また次に生まれる途中においても、日蓮大聖人の弟子ならば守られないはずがない。安心して、永遠に遊戯していけるのである。
 儀典部の皆さまは、故人が「成仏の軌道」を安心して歩みゆくために、真剣に祈り、唱題してくださっている。心から感謝申し上げたい。どうか、儀典部の方々ご自身が、健康で長生きしていただきたい。
25  迫害者は必ず後悔する
 最後に有名な「如説修行抄」の一節を拝したい。
 「哀なるかな今・日本国の万民・日蓮並びに弟子檀那等が三類の強敵に責められ大苦に値うを見て悦んで笑ふとも昨日は人の上・今日は身の上なれば日蓮並びに弟子・檀那共に霜露の命の日影を待つ計りぞかし
 ――哀れなことだ。今、日本国の民衆は、日蓮と弟子檀那等が三類の強敵に責められ、大苦にあっているのを見て、喜んで笑っているが、『きのうは人の上、きょうはわが身の上』であるので、日蓮と弟子檀那等が受けている、この苦しみも、霜や露が朝日に当たって消えてしまうように、わずかの間の辛抱である――。
 「只今仏果に叶いて寂光の本土に居住して自受法楽せん時、汝等が阿鼻大城の底に沈みて大苦に値わん時我等何計いかばかり無慚と思はんずらん、汝等何計いかばかりうらやましく思はんずらん
 ――私たちが、ほどなく仏果を得て寂光の本土に住み、『自受法楽』すなわち『みずから法楽を受ける』境涯を楽しむ時に、あなた方(今まで笑ってきた人々)は阿鼻地獄の底に沈んで大苦にあうのである。その時、私たちは、その姿を見て、どんなにかわいそうに思うことであろう。また、あなた方は私たちを見て、どんなにうらやましく思うことであろう――。
 ″迫害者は必ず後悔する。「しまった」と思う″と、仰せなのである。
 「一期を過ぐる事程も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ
 ――一生は、束の間に過ぎてしまう。だから、いかに三類の強敵が重なろうとも、ゆめゆめ退する心があってはならない。恐れる心があってはならない――。
 この御本仏の教えを確認して、記念のスピーチを結びたい。長時間ありがとう。
 サンキュー・ソー・マッチ。全国の皆さまの健闘に心から感謝します!

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