Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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常勝関西40周年の集い この上ない「所願満足」の人生を

1996.3.18 スピーチ(1995.5〜)(池田大作全集第86巻)

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7  魔を断つ利剣はh唱題
 日蓮大聖人は、狂った権力者を「父母をなぐる子ども」のように見ておられた。
 「佐渡御書」には、次のように仰せである。
 「世間の愚者の思に云く日蓮智者ならば何ぞ王難に値哉なんと申す日蓮兼ての存知なり父母を打子あり阿闍世王あじゃせおうなり仏阿羅漢を殺し血を出す者あり提婆達多是なり六臣これを瞿伽利くぎゃり等これを悦ぶ、日蓮当世には此御一門の父母なり仏阿羅漢の如し然を流罪し主従共に悦びぬるあはれに無慚なる者なり(中略)法華経に云く「悪鬼入其身」と是なり
 ──世間の愚かな人々が思うことには、「日蓮が智者であるなら、どうして幕府による難にあうだろうか」(幕府が迫害しているのだから、立派な智者ではないのであろう)と。
 日蓮は、かねてより(権力による難が起こることを)知っていたのである。父母を打つ子どもがいる。阿闍世王である。仏や阿羅漢を殺したり、血を出させた者もいる。提婆達多である。(その非行を)阿闍世王の大臣たちは、たたえ、瞿伽利(提婆達多の弟子)たちは喜んだ。
 日蓮は現代において、この北条一門の「父母」である。また、仏・阿羅漢のような存在である。にもかかわらず日蓮を流罪し、主従ともに喜んでいる。何ともあわれで恥しらずな者たちである。(中略)法華経に説く「悪鬼入其身あっきにゅうごしん(悪鬼その身に入る)」そのものである──。
 大慈悲をもって大聖人が「救ってあげよう」というのに、父母をなぐる子どものように、かえって大聖人をいじめて喜んでいる、と。
 大聖人は、権力者の迫害を、このように見ておられた。大聖人から見れば本当に愚かで、あわれな姿に見えたにちがいない。法華経(寿量品)に「狂子おうし」とある通りであった。
 今となって見れば、彼らは永遠に悪人の名を残している。迫害されたほうの大聖人と門下は永遠に輝く勝者である。
 こういう悪鬼入其身は「元品の無明」が根っこである。
 「御義口伝」に「信の字元品の無明を切る利剣なり」と仰せのように、「元品の無明」は「信心」で断ち切る以外にない。「題目」こそ、悪鬼と戦う根本の武器である。
 題目根本に、魔と戦うとき、自分自身が鍛えられ、成仏できる。そうなれば、「悪知識」も、かえって「善知識」になる。
 難の時こそ、功徳を積み、成仏するチャンスなのである。
8  仏法は永遠に仏と魔との大闘争である。魔が競い起こらなければ真の仏法者とはいえない。
 目先のことで一喜一憂する必要など、まったくないのである。
 向かい風に胸を張って挑んでいく──これが仏道修行である。そして、これこそ、関西スピリットである。あの「一万一千百十一世帯」も、向かい風の中で堂々と勝ち取ったものである。
 これからも満々たる生命力で、常勝の歴史を残していただきたい。「民衆が勝った」という証明のドラマを後世に輝きわたらせていただきたい。一緒に、いい人生を生き、いい人生を仕上げてまいりたい。
 私は、全関西の同志が一人も残らず、ますます健康で、ご多幸で、そしてご長寿であられるよう、さらに真剣に祈っていく。
 ご家族の皆さま、地域の方々に、どうかよろしく伝えていただきたい。

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