Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

東北代表協議会 人材の「宝の山」を仰ぎたい

1995.6.17 スピーチ(1995.5〜)(池田大作全集第86巻)

前後
2  「福島」とは、つくづく、良い名前である。
 ″福の島″──それは、″福運の島″″福徳の島″″幸福の島″とも読める。山があり、緑があり、海がある。どれをとっても、一流の趣を感じる。
 また、将来の東北にあっても福島は、首都圏と結ぶ「要衝の地」として、大きな可能性が指摘されている。
 二十一世紀は「東北の時代」である。その発展のカギをにぎるのが福島とされているのである。
3  「会津」という地名には″出会うところ″の意義があるとも言う。
 「古事記」では、北陸から来た将軍と東海地方から来た将軍がこの地で出会ったことから「会津」の名が生まれたとする。また、この地で多くの川が合流する、すなわち川が会うことから「会津」の名が出たともいわれる。
 その意味からも、「地域発展の将軍」である皆さまが集い、新時代へ希望の潮流を広げゆく拠点が会津にできた意義は、まことに大きい。
 会津民謡も全国的に名高い。
 「会津磐梯山は宝の山よ 笹に黄金がなりさがる」
 この一節を、牧口先生が『人生地理学』(第九章「山岳及渓谷」)の中で、紹介されている。
 ″会津藩の国歌とされる、この一首を味わってみれば、いかに山が、地域の人心に影響をあたえたかを知ることができるだろう″と。
 この他にも例を挙げて″山には人情を和らげ、人心を啓発する働きがある。一方、人間もまた山を愛し、山と一体化するようになる″と考察されている。
 たしかに、この研修道場から仰ぎ見る磐梯山は雄大である。また、何ともいえない温かさがある。この美しき「楽土」に育まれた皆さまが、どれほど気高く、深き人格の芯をもっておられるか。
 日本の歴史を見ても、福島、そして会津の人々の高潔なこころざしは、ひときわ光彩を放っている。その要因を、素晴らしい自然環境との関係のなかで、牧口先生は鋭く洞察されていたのである。
4  牧口先生が弘教に歩まれた地
 以前も紹介したが、牧口先生は、福島をたびたび訪問されている。
 昭和十七年(一九四二年)七月にも、牧口先生は、東京で入会したある姉弟の両親を折伏するために、お一人で福島の郡山を訪問された。
 戦火が激しくなり、軍部権力の圧力も一段と厳しさを増した最中のことである。この二カ月前の五月、国家権力の弾圧によって創価教育学会の会報『価値創造』も廃刊を余儀なくされた。
 そのなかを七十一歳の牧口先生は一人、この福島に尊き法戦の歩みを運ばれたのである。牧口先生の絶対の確信と、真心の激励に、その両親は入会を決意したという。この後、牧口先生は同じく福島の二本松へ弘教におもむかれている。
 ここ福島の地に、先師の「魂の歴史」が刻まれていることを、皆さまは断じて忘れないでいただきたい。
 思えば福島は、大聖人が御入滅前、訪れようとされた地とされる。
 ご存じのように大聖人は「常陸ひたちの湯」に向かって出発され、池上(東京・大田区)で御入滅された。堀日亨上人の考証によると、この「常陸の湯」とは、福島の磐城いわきにある湯本の温泉とされている。
 (「常陸の湯の事は、その地に付いて諸説多多であり、後人が一般に地誌を問題にせぬ辺からもきておる。(中略)正しくは磐城国の湯本の湯泉ゆせんである」〈『富士日興上人詳伝』〉)
5  温泉と言えば、福島の名湯めいとう土湯つちゆ温泉」の友を思い起こす。
 きょうも、この研修道場内で土湯の代表とお会いし、懐かしく語り合った。
 (名誉会長が初めて土湯の町を訪れたのは、一九六九年(昭和四十四年)十月末。そのさいメンバーに「土湯グループ」の名前を贈った。地元・土湯地区の友は、あふれんばかりの感激を伝えたいと、皆で記念写真に納まり、後日、名誉会長に届けた。また、昭和五十九年五月の福島青年平和文化祭の折にも、名誉会長は寸暇をぬって土湯の友を激励。十五年ぶりの訪問は、わずかな時間ではあったが、土湯の友にとって永遠の誓いの時となった。
 今、土湯地区のある土湯温泉町は、三人に一人が学会員に、そして地域のほとんどの方が「聖教新聞」の愛読者という、広布の理想郷が築かれている)
 研修道場では、他にも「大堀相馬そうま焼」「会津ぬり」など、伝統文化の実演や県内各地の名産品が、訪問者のために用意されていた。
6  どの地にあっても、地域に根を張って、地域の灯台として、地域のために尽くしてきた功労者がおられる。その方々を、私は心から尊敬申し上げている。
 東北の友は、あらゆる面で困難な環境を切り開いてこられた。東北は本当によく頑張られた。私は最大の称賛を捧げたい。
7  「人を育てる」伝統が福島に
 福島、なかんずく会津の地には「人を育てよう」という精神が脈打っている。古来、教育に尽くした会津人は多い。
 江戸時代の会津の藩校「日新館にっしんかん」は、全国三百藩中でもトップクラスの学校であったと評価されている。
 この「日新館」には、吉田松陰(一八三〇〜五九年)も二十一歳の折、はるばる訪れている。
 松陰は、東北が日本の将来にとって重要な地域であることを見抜いていた。会津藩も訪れ、人々と語らった印象を「文武ぶんぶの士が多いので大変有意義だった」と、松陰は記している。
 会津は、確固たる人間を生み出してきた国土である。世界に通じる「信念の人」「知性の人」も多く出している。
 そうした郷土の偉人について、福島青年部の皆さんが調べてくださったものを参照しながら、若干、紹介させていただきたい。
 まず、黄熱おうねつ病の研究に殉じた野口英世は、あまりにも有名である。
 また、日本で最初に外国に留学した女性の一人も、会津出身であった。その女性、山川(大山)捨松すてまつは、明治四年(一八七一年)、津田梅子らとともにアメリカに留学。十一年の勉強の後、帰国後は「鹿鳴館ろくめいかんの華」として活躍し、女子教育の向上にも貢献している。
 有名な小説『小公子』(バーネット作)を日本で最初に翻訳した女性、若松賤子しずこも会津の人である。
 さらに戊辰ぼしん戦争(一八六八〜六九年)や災害時に身を賭して救済・看護活動に当たり、「日本のナイチンゲール」とたたえられた瓜生うりゅう岩も、福祉の先覚者として名高い。
8  この誉れ高き福島の天地に、私どもの力で、人材の「宝の山」を堂々と築いてまいりたい。
 心こそ大切である。人材を見つけよう、人材を育てようという心が「宝の山」を築く土台となる。
 若い人を育てれば、自分も若くなる。学会員のために尽くせば、自分が幸福になる。
 「心」である。「心」で決まる。
9  福島の皆さまは、旧習にも負けず、四国全土の広さに匹敵する広大な天地を駆けめぐり、いたる所に仏法の種を植え、根を張ってこられた。何と尊き、何と偉大なる勝利の歴史であろうか。
 これからも、自分たちの地域を、自分たちの力で、自分たちのために、「すべてを楽しむ」大きな境涯で、栄えさせていただきたい。
 きょうは有意義な東北最高会議、そして代表協議会おめでとう。

1
2