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日蓮大聖人・池田大作

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中部・北陸代表者会議 「感動の人生」を、そのために勇気を

1995.5.18 スピーチ(1994.8〜)(池田大作全集第85巻)

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10  鴎外は小説『妄想』(『鴎外全集』8所収。以下、引用は同書から)では、こう書く。
 「生れてから今日まで、自分は何をしているか」
 「自分のしている事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。その勤めている役の背後に、別に何物かが存在していなくてはならないように感ぜられる」
 「舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を勤め続けている。この役が即ち生だとは考えられない。背後にある或る物が真の生ではあるまいかと思われる。しかしその或る物は目を醒まそう醒まそうと思いながら、又してはうとうとして眠ってしまう」
 「本当の自分」を生きることができず、常に、あてがわれた「役」を演じ続ける空虚さ。鴎外の言葉は、時代を超え、現代の多くの日本人の心の風景を鋭く言い当てているように思える。
 「何のため」という目的もわからず、良い学校へ、良い会社へ、より良い生活へと、いつも鞭打たれ、駆り立てられている。しかし、心はむなしい──。
 日本人は人の目を気にしすぎ、「世間体の奴隷」となっているといわれる。
 有名なケーベル博士も、日本人の最大の欠点のひとつを「虚栄心」と指摘した。
 ケーベル博士は、明治時代に東京帝国大学の哲学教師として来日したドイツ系ロシア人。長く日本に滞在し、多くの優れた随筆も残した。
 自分をごまかして生きているから、いつも心の底はむなしい。むなしいが、人生を真剣に省みることなく、「いつか、この先に真の人生があるだろう」と思っている。あるいは、むなしいゆえに、そんな自分を見つめることを怖がっている。
 そうしているうちに老いて、死んでしまう──。
 これでは、いったい何のために生まれてきたのか。自分も感動しない。人も感動しない。「生きながらの死」とはいえないだろうか。
 ゆえに、「自分自身に生ききる」哲学が必要なのである。
 人生は、あっという間に過ぎる。多くの人は、風潮に流され、流行を追い、「真の生」に目覚めないうちに終わってしまう。
 「何のため」という根本の哲学をもった皆さまこそ、命が打ち震えるような「感動」のある日々を生きられるのである。自他ともの人間革命──広宣流布こそ最高のロマンである。
 マンチョ氏が未来部の子どもたちのために歌ってくださった中に「熊」という曲がある。その一節は、こうである。
 「私の目的は 人生の困難な道について 子どもたちに学んでもらうこと
 誰にも もぎ取られちゃいけないのさ 考える頭も 行動する手も」
 「考える頭」と「行動する手」を失って、権威・権力に従順に生きれば、楽かもしれない。しかしそこには感激がない。進歩がない。喜びがない。充実がなく、幸福もない。
11  私どもは行動する。身口意の三業で広宣流布へ戦う。名聞名利等の「八風」にたぶらかされず、″仏法は勝負″の修行を貫く。そこに仏界は涌現する。
 日寛上人は「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(六巻抄二二㌻)と。
 大事なのは「信心」である。役職でも、学歴でもない。格好でもない。
 「信心」強きゆえに「仏界」の力が出る。「信心」強きゆえに、動乱の社会にあって、学会は厳然として揺るがない。学会こそ、民衆の「安心の灯台」なのである。
 その誇りを胸に、最高の「人間の道」「信念の道」を、ともに堂々と進んでまいりたい。
 百一回目の訪問を、お互いに楽しみにしたい。きょうは、ありがとう!
 (中部文化会館)

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