Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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各部代表との協議会 リーダーは一切から学べ

1994.3.12 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

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7  続けて、こう話されている。
 「かように考える私は先生が、法華によって初めて一変された先生でなく、生来仏の使であられた先生が、法華によって開顕し、その面目を発揚なされたのだと、深く考えさせられるのであります。そうして、先生の姿に、いいしれぬ尊厳さを感ずるものであります。
 先生には味方もありましたが、敵も多かったのであります。あの荊の道を厳然と戦いぬかれた気魄、真正なるものへの忠実、私は自ら合掌せざるを得なくなります」
 「英雄、英雄を知る」というが、広布の大英雄たる牧口先生・戸田先生の本質を、日淳上人は、仏法の眼で洞察されていた。創価学会を常に正しく理解し、見守ってくださったのである。
 私どもに嫉妬し、広宣流布を断絶させようとした悪僧とは正反対の、清らかな正師であられた。
 この希有の大学匠・日淳上人が、牧口先生を深く尊敬され、心から合掌されているのである。
 牧口先生が、大聖人に直結した、信心の血脈の流れる地涌の菩薩であられたことを、深く知られていたからであろう。
 その牧口先生によって創立されたのが、仏意仏勅の我が創価学会なのである。日淳上人のお言葉から、創価学会の存在の深い意味をくみとっていただきたい。
 戸田先生は、我が生命を尊いと思うなら、我が生命の中にある仏の生命をわかせなさいと教えられた。そして御本尊を信ずるときに、我が生命の中の「日蓮大聖人の生命」がわくのである、と教えられたのである。
 日達上人は、「私共は一心にこの御本尊様を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉れば、この身即ち御本尊となる。又宗祖大聖人様の尊体となるのでございます」(昭和三十五年十一月五日・『日達上人全集』)と述べられている。
 これほど素晴らしいことはない。だれよりも堂々と胸を張り、だれよりも希望に燃えて生きるべきである。
 大聖人の仏法は、御本尊を信ずる「人」を、何の差別もなく、尊極の「尊体」とする。全人類に平等な世界宗教である。
 今、宗門は、日寛上人御書写の御本尊を誹謗しているが、御本尊を誹謗するということは、大重罪である。
 自分自身の仏界を誹謗し、破壊することにも通じる。ゆえに、絶対に幸せにはなれない。
 また、正法を弘める仏子である学会員を誹謗し迫害する者も、正法を誹謗するのと同じく重罪となる。
8  「絶対的幸福」を今世で
 戸田先生は、「受持即観心」について、「信じ、受持することによって、御本尊の因行果徳を譲り与えられて、歓喜の境涯に住することができるのである。ここに、末法御本仏としての、日蓮大聖人ご出世の深意があるのである」(『戸田城聖全集』第一巻)と述べられている。
 御本仏・日蓮大聖人の御当体である御本尊を信ずることによって、大聖人が過去になさった「成仏の因となる修行」と、その結果得られた「仏としての徳用」を、そのまま譲り与えてくださるのである。何とありがたいことであろうか。
 ただし、御本尊を「信じ、受持する」とは、ただ御本尊を受けて、持っているという意味ではない。信力・行力を発揮することである。勤行・唱題の自行とともに、広宣流布のため「化他の行動」があってこそ、「絶対的幸福」をつかめる。
9  信心は、まっすぐに貫くことである。幸福の軌道を、まっしぐらに進むことである。そうすれば、どういう自分になれるか。
 戸田先生は、言われた。
 「絶対的幸福というのは、どこにいても生きがいを感ずる境涯、どこにいても、生きている自体が楽しい、そういう境涯があるのです。
 したがって、その人のいるところは、いつも明るい。けんかなどありません。腹のたつことがあっても、愉快に腹がたつ、そういう境涯ができたら、うれしくありませんか」(昭和三十一年五月三日、第十四回春季総会。同全集第四巻)と。
 日々、「生きる喜び」を満喫しながら、どんな課題も悠々と乗り越えて、「私は愉快だ」「私は満足だ」「私は勝った」といえる人生を開く。そのための信仰である。
 私はいつも祈っている。全学会員の皆さまが一人残らず、勇気ある信心で、「絶対的幸福」をつかんでほしいと。
 それだけが私の願いである。ただ会員の皆さまの幸福のために、私は生きている。そのために私は生き抜いていく。
 幹部の皆さまも、私のこの心を知っていただきたい。そして友のために尽くす高貴なる人生を、誇りをもって、ともに歩んでいただきたい。
 (静岡県内)

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