Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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中国・岡山の旭日最高会議 戦う「信心」に仏界の太陽が昇る

1993.11.29 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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16  日亨上人は、「御大法も仏の大慈悲も信心に依りて通ふものなれば・不信の者の志は御本仏には通ぜざるなり」(「有師化儀抄註解」)──御本仏の大法も、御本仏の大慈悲も、信心によって(信心ある者に)通うものであるから、不信の者の志は、御本仏には通じないのである──と記されている。
 宗門は、私利私欲のためだけに、根本の大事である広宣流布を妨害し続けている。当然、大聖人の「大法」も「大慈悲」も、まったく通わず、大聖人と完全に切れ、離れてしまっているのである。
 日顕の先師日達上人は、こう指南されている。
 「この法華経の御題目を離れれば、離れた時限に於て、即ち信心を捨てた時、既に地獄である。と云う事を考えなければならないので御座います」(昭和四十四年一月一日、総本山衆和会)──と。
 信心を失い、広布と正法を捨てた現宗門は、すでに堕地獄なのである。
 日亨上人は、「邪信迷信」の者は、「即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり」(「有師化儀抄註解」)と述べられている。
 「信心」がなければ「血脈」もなく、「成仏」もない。大聖人の仏法は、「信心」の仏法なのである。この根本が、今の宗門にはわからない。
17  日達上人は、お述べである。
 「法華経第四に『たもつことあればすなわち仏身を持つなり』、能く此の法華経を持ち、御本尊に向って南無妙法蓮華経と唱えて行くならば、そこに仏身を持ち、そのまま仏であると」
 「御本尊に向って南無妙法蓮華経を一時信ずるならば、一時の成仏。一日信ずるならば、一日の成仏である。大きく一生を通じて南無妙法蓮華経の信心を忘れない時は、一生の成仏が具なわるのである。それを即身成仏と云うので御座います」(総本山衆和会)──と。
 御本尊を「能く持」ってきたのは、学会員しかいない。題目を唱えに唱え、広宣流布のために辛労を尽くしてこられた。学会員をおいて、一生成仏の人は、ほかにない。
 戸田先生は、述べられた。
 「成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。大聖人様の凡夫即極、諸法実相とのおことばを、すなおに信じたてまつって、この身このままが、永遠の昔より永劫の未来にむかって仏であると覚悟(悟る)することである」(「大利益論」)と。
 広布のために、捨て身で戦う「信心」。正法正義に、まっすぐに生き抜き、殉じようという「信心」。その胸中に「仏界」の太陽は赫々と昇る。
18  「日蓮は満月のごとし」と
 岡山は「日本一の桃太郎」とか、古代の吉備文化とか、ロマンあふれる天地である。
 しかも、きょうは満月。珍しい「月出帯食げっしゅつたいしょく」の夕べでもある。
 大聖人は「日蓮は満月のごとし」と仰せである。
 (他の「智人」等は星のようである、と)
 また「法華経は闇夜の月のごとし法華経を信ずれども深く信ぜざる者は半月の闇夜を照すが如し深く信ずる者は満月の闇夜を照すが如し」と。
 ──法華経(御本尊)は闇夜の月のようである。法華経を信じても、深く信じない者は、半月が闇夜を照らすようなものである。深く信ずる者は、満月が闇夜を照らすようなものである──と。
 岡山は、満月のごとき「深き信心」で、社会の大空を照らし、人々の心を照らしていただきたい。人生の生死の闇を払い、晴れやかに、幸福の美しき光を広げていただきたい。
 そして私は呼びかけたい。
 「永遠興隆の満月城」岡山、頑張れ!と。

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