Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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群馬多宝研修道場開所記念勤行会 世界の同志の「健康の王宮」

1993.8.13 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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18  日寛上人″懶惰懈怠の僧は外道″
 日寛上人は、ここ群馬のご出身である。「信心は大聖人の時代にかえれ、教学は日寛上人の時代に還れ」が、戸田先生の叫びであった。
 日寛上人は「当流行事抄」の中で教えられている。
 「行者まさに知るべし、受けがたきを受け、い難きに値う、曇華どんげにも超え浮木ふぼくにもすぐれたり。一生むなしくごして万劫ばんこう必ずゆ。身命をしまずしてすべから信行しんぎょうを励むべし。円頂方袍えんちょうほうほうにして懶惰懈怠らんだけだいの者はれ我が弟子にあらず、すなわ外道げどうの弟子なり云云うんぬんつつしむべし慎むべし、つとめよや勤めよや」(六巻抄194㌻)
 ──仏道を修行する者は、まさに知るべきである。受け難き人身を受け、あい難き正法にあうことは、優曇華うどんげ(三千年に一度咲くといわれる花)のたとえ、一眼いちげんかめと浮木の譬えをもってしても、あらわすことのできない大福運なのである。
 この一生をむなしく過ごすならば、万劫ばんこうにわたり必ず悔いを残すであろう。
 身命を惜しまず、信行に励むべきである。円頂(剃った頭)、方袍(袈裟の姿)の僧侶の身でありながら懶惰懈怠らんだけだい(なまけ、おこたること)の者は、我が弟子ではない。すなわち外道の弟子である。慎むべきである。慎むべきである。勤めなさい。勤めなさい」──。
 堕落の僧は仏弟子ではなく、我が弟子ではないと──日寛上人は、日顕宗の「外道」への堕落をどれほどお怒りのことであろうか。
19  また日寛上人は、「観心本尊抄文段」の中で仰せである。
 日寛上人「祈りとして叶わざるなく」
 「しばらくもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、すなわち祈りとしてかなわざるなく、つみとして滅せざるなく、福としてきたらざるなく、理としてあらわれざるなきなり」
 この無量の功徳を確信して、進んでまいりたい。
 この不思議なる天地、素晴らしき天地に誕生した世界の同志の王宮を、草津に来たいと言われていた戸田先生も、必ずや喜んでくださっているにちがいない。本当におめでとう!

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