Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第64回本部幹部会、第7回東京総会 ″民衆とともに″″世界を味方に″進む

1993.3.24 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

前後
10  山いもなどの質素な品々であり、わずかな御供養である。にもかかわらず、「真心が、うれしくて、涙をこらえることができません」と。これが、仏さまであられる。御本仏の御心であられる。
 たとえ、ささやかであっても、庶民の真心を絶対に″無″にされない。あますところなく理解し、受けとめられる。庶民の苦労を、だれよりも、だれよりも、わかってくださり、抱きかかえてくださっている。
 ここに、真実の宗教の世界がある。信仰の″極意″ともいうべき人間性の輝きがある。この麗しい世界を今、現実社会に広げているのが、わが創価学会である。
 いわゆる″宗教屋″は、庶民を睥睨へいげい(にらみつけて威圧すること)する。さんざん庶民を利用し、取るだけ取ったあげく、冷酷に捨て去る。御本仏の敵である。
 民衆を蔑視べっしする″政治屋″も同様である。皆さまは、そんな連中に絶対にだまされてはならない。
 私たちは、どこまでも「大聖人直結」で進む。庶民を、これほどまでに大切になされた大聖人の御心を拝し、どこまでも「庶民とともに」「庶民の味方となって」生き抜いてまいりたい。
 えらぶった人間、庶民を馬鹿にし、しいたげる人間とは、断じて戦い抜く。これこそが、御書に示された大聖人の御精神と信ずる。
11  「生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」
 これまでも、何度も拝してきた有名な御文であるが、大聖人はこう仰せである。
 「人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」──人間として生まれてくることは難しい。あたかも爪の上の土のように、わずかなことである。また、たとえ人間として生まれてきても、その身をたもつことは難しい。太陽が昇れば消えてしまう草の上の露のように、はかない。百二十歳まで長生きし、汚名を残して死ぬよりは、生きて一日でも名をあげる事こそが大切である──。
 長生きしたから、いい人生とはいえない。何を残したか、どんな価値を生んだか、どれだけの人を幸せにしたかである。
 その意味で、結論的に言えば、広宣流布に生きることが、即、最高の人生となる。広宣流布に生き抜くことは、そのまま、社会への最大の貢献になっている。自他ともに幸福になる。仏法は即社会、そして信心は即生活であり、一体である。
 ゆえに大聖人は、法華経のため、広宣流布のために働き、名を上げなさい、限りある一生に、自分はこれだけやりきったという悔いのない歴史をつくりなさい、残しなさい、と教えられているのである。
12  今回、北・南米の六カ国・九都市を訪問したが、いずれの地でも″わが友″は、社会のために、涙ぐましいほどの戦いをされていた。広宣流布のために、生き生きと活躍されていた。
 ああ、来てよかった。何と尊い方々か──私は、お一人、お一人を抱きかかえてあげたい気持ちでいっぱいであった。
 この方々が、おられるがゆえに、それぞれの国に広宣流布の「万年の道」ができるのである。だから「一人」が大事なのである。
 世界広布の本陣である東京の皆さまも、新しい時代をつくるために、私とともに、頑張っていただきたい。世界の同志が「さすがだ」と喝采を送る、堂々たる勝利をお願いしたい。
 同じ戦うならば、前向きにいかなければ、つまらない。みずから動いて、気持ちよく戦ってこそ喜びも湧く。勢いもつく。
 生き生きと挑戦することである。生き生きと進むところに、福運はついてくる。「仏法は勝負」「仏法は戦い」である。生き生きと戦う人が、最後には勝つ。「信心根本」「唱題根本」で生き抜く人が、必ず最後に勝つ。
 私は、これからも日本を回ります。世界へも飛び立ちます。お会いできる日を楽しみに、朗らかに進みましょう!

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