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日蓮大聖人・池田大作

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長野・飯田支部結成三十周年記念の集い ″大聖人直結″の信心で栄冠

1992.8.14 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

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11  また日有上人は、「行体」(実践)について、こうも示されている。
 「行体行儀の所は信心なり、妙法蓮華経なり、爾るに高祖(大聖人)開山(日興上人)の内証も妙法蓮華経なり、爾れば行体の人をば崇敬すべき事なり」
 日亨上人は、この教えを次のように注解されている。
 「信心の帰着は妙法蓮華経なり、妙法蓮華経の体現は行体に於いて此を認むる事を得、宗祖開山の御内証は・妙法蓮華経にして吾人の帰着する所も・亦妙法なれば・妙法体現の行体の人には如何なる人も敬意を払はざるべからず」と。
 「妙法蓮華経」という大聖人・日興上人の御内証には、「実践」によってこそ近づくことができる。「信心」と「実践」なく「形式」だけでは、絶対に妙法を体現することはできない。ゆえに、「実践の人」をこそ、心から尊敬していくべきである。
 みずからは実践もせず、かえって「行体の人」を軽蔑し、その実践を邪魔するような悪侶は、妙法を破壊するために出現した魔僧なのである。
12  また日有上人は、僧侶が社会の中で率先して弘教すべきことを述べられている。
 「当宗は折伏の宗なる故に山居閑居は宗旨に背く」──正宗は「折伏の宗」であるから、弘教もせず、山にこもっていたり、ぼんやり暮らしているのは、宗旨に背くことになると。
 ただし、自分が弘教し抜いた後、同じく弘教しゆく弟子をつくったならば、老後の「山居」等も基本的には許されるとも言われている。本来、正宗の宗風は、かくも厳格であった。
 この御文について日亨上人は、こうお述べである。
 「身心壮健にして閑遊安逸を貪るは大に宗旨に背くの罪人なり」と。
 そして、日有上人の御一生は、この折伏精神を発揮されたもので、そこに宗門の中興の祖と呼ばれるゆえんがあると述べられている。
 死身弘法もなく、「閑遊安逸」「放蕩三昧」にふける日顕宗が、どれほど正宗の宗旨に違背しているか、明々白々であろう。大いなる「罪人」であるとの御断罪である。
13  ともあれ、皆さまは、最も″正しき人生″を送っておられる。ゆえに、だれよりも″楽しき人生″であっていただきたい。
 「ああ、わが人生は、本当に痛快な楽しい人生だった。私は勝った。何の悔いもない」と、晴れやかな笑顔で最期を飾れるような人生であっていただきたい。それでは、お元気で! また来ます!

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