Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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大学会・渋谷区合同記念総会 われらには大聖人直結の「正道」

1991.11.9 スピーチ(1991.10〜)(池田大作全集第79巻)

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16  理不尽な圧迫にも″信仰を捨てなかった四条金吾″
 最後に、再び御書を拝したい。建治三年(一二七七年)七月、大聖人が四条金吾に与えられたお手紙である。
 当時、金吾は最大の苦難のまっただ中にいた。前年から、主君(江間氏)の圧迫は増大し、「減俸」「領地替え」の命が下り、さらに「所領没収」「追放」の恐れさえあった。そして、この御消息の直前には、″無実の罪″を着せられ、それを理由に、″法華経の信仰を捨てよ″と起請文きしょうもん(誓約書)を書くよう命令された。(六月、大聖人門下の三位房が、鎌倉で人気のあった堕落僧・竜象房を、法論問答で徹底的に破折した<桑ケ谷問答>。金吾も同席していたが、それを「金吾が竜象房の説法の場に押しかけ、暴力をふるった」と、事実無根の讒言ざんげんをされた)
 しかし、金吾は毅然きぜんとして大聖人にお誓いした。「決して誓約書は書かない」「法華経は捨てない」と──。この御消息は、その報告への御返事である。
 「度度の難・二箇度の御勘気に心ざしを・あらはし給うだにも不思議なるに、かく・おど威嚇さるるに二所の所領をすてて法華経を信じ・とをすべしと御起請候事いかにとも申す計りなし、普賢・文殊等なを末代はいかんがと仏思し食して妙法蓮華経の五字をば地涌千界の上首・上行等の四人にこそ仰せつけられて候へ・只事の心を案ずるに日蓮が道をたすけんと上行菩薩・貴辺の御身に入りかはらせ給へるか又教主釈尊の御計いか、彼の御内の人人うちはびこつて良観・竜象が計ひにてや・ぢやうあるらん、起請をかかせ給いなば・いよいよかつばら彼奴等をごりて・かたがたに・ふれ申さば鎌倉の内に日蓮が弟子等一人もなく・せめうしなひなん
 ──(日蓮の)たびたびの難、二度の御勘気(伊豆・佐渡の二度の流罪)の折に、(在家の)あなた(四条金吾)が揺るぎない信心をあらわされたことさえ不思議であるのに、このように(主君から)おどされた時に二カ所の所領を捨ててまでも、法華経を信じ通すという誓状を書かれたことは、言葉では言い表すことができないほど立派なことである。釈尊は、普賢菩薩や文殊師利菩薩等でさえも、末法の法華経弘通ぐづうにはおぼつかない(心配である)と思われて、妙法蓮華経の五字の流布を地涌千界(地涌の菩薩)の上首である上行菩薩等の四人に仰せつけられたのである。
 ただ、このたびのことの意味を考えると、日蓮の道(法華弘通の道)を助けようとして、上行菩薩があなたの御身に入りかわられたのだろうか。または、教主釈尊の御計おんはからいであろうか。江間氏の御内みうちの(あなたを憎んでいる)人々が増長しているのは、良観や竜象房が、きっと画策しているのにちがいない。もし、あなたが(信仰を捨てるという)起請文をお書きになったならば、ますます彼らは驕り高ぶって、方々に、それを吹聴するであろう。そうなれば、鎌倉にいる日蓮の弟子等は、一人も残らずせめられ、いなくなってしまうであろう──と。
 大聖人は鋭く本質を見破られている。金吾に対する迫害の背後には、僣聖せんしょう増上慢の良観、また竜象房ら「悪侶」の黒い策謀が働いていると。
 しかし、いかなる脅迫まがいの圧迫にも、ひるむことなく「正しき信仰」を貫き通す在家の金吾。その大強信の雄姿を、大聖人は最大に御称賛くださっている。″これこそ「日蓮の道」を助ける偉大な行動である″と──。
 今も「方程式」は同じである。私どもの行動についても、大聖人が諸手を挙げて、たたえてくださっていることは絶対に間違いない。
17  仏の御計い──最良の方向と確信
 大聖人はさらに、こう仰せである。大変、有名な御文であるが──。
 「一生はゆめの上・明日をせず・いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず、されば同くは・なげきたるけしき気色なくて此の状に・かきたるが・ごとく・すこしも・へつらはず振舞仰せあるべし、中中へつらふならば・あしかりなん、設ひ所領をめされ追い出し給うとも十羅刹女の御計いにてぞ・あるらむと・ふかたのませ給うべし
 ──一生は夢の上の出来事のようにはかないもので、明日のことさえわからないものである。たとえ、どんな乞食になったとしても、法華経にきずをつけてはならない。それゆえ、同じくは、(あなたの決意はすでに定まっているのであるから)嘆いた様子を見せないで、この誓状に書かれたように、少しもへつらわずに振る舞い、語っていきなさい。なまじ、へつらうようなことがあれば、かえって(状況は)悪くなるであろう。たとえ、所領を没収され、(土地を)追い出されようとも、それは十羅刹女(諸天善神)の御計いであるのだろう、と深く信をとり、十羅刹女にまかせておきなさい。
 もし日蓮(佐渡に)流罪されないで鎌倉にでもいたならば、あの戦い(文永九年二月の北条一族の内乱<二月騒動>)に巻き込まれて、きっと打ち殺されていたにちがいない。今、あなたが江間家を追い出されることも、このまま江間家にとどまっていてはよくないだろう、という釈仏の御計いなのであろう──と。
 どのように圧迫されようとも、少しも嘆くことはない。″三世永遠″から見下ろせば、″一瞬″の出来事である。断じて、へつらってはならない。卑屈な振る舞いを見せてはならない。
 この大聖人の仰せを、私どもは今一度、深く心に刻んでまいりたい。とともに、仏法の眼から見れば、すべて深い意味がある。御本仏が厳然と創価学会を守ってくださっている。一切が「正義の証明」へ、「正義の勝利」へと動き、回転していることは間違いない。
 あとになれば、万事、一番、良い方向に進んだことがわかるのである。
 また「日蓮が道」を助ける──「広宣流布」という御本仏の御遺命実現に働く私ども学会員には、必ず十方の仏菩薩、諸天善神の絶大の加護がある。ゆえに、何があっても、朗らかな「楽観主義」で悠々と進んでまいりたい。
18  正法ゆえの難は法華経への供養
 さらに大聖人は「此の陳状・人ごとに・みるならば彼等がはぢあらわるべし、只一口に申し給へ我とは御内を出て所領をあぐべからず、上より・めされいださむは法華経の御布施・幸と思うべしと・ののしらせ給へ、かへすがへす奉行人に・へつらうけしき気色なかれ、此の所領は上より給たるにはあらず、大事の御所労を法華経の薬をもつて・たすけまいらせて給て候所領なれば召すならば御所労こそ又かへり候はむずれ、爾時は頼基に御たいじやう怠状候とも用ひまいらせ候まじく候とうちあて・にくさうげ憎体気にて・かへるべし
 ──この陳状(「頼基陳状」のこと。四条金吾の正義を訴えた主君への陳述書。大聖人が代筆された)を人々が見るならば、(策謀した)彼らの恥がはっきりと表れるであろう。
 あなたは、ただ一口に申しなさい。「自分から江間家を出て、所領を差し出す気持ちはありません。主君から取り上げられるならば、それは法華経への御布施であり、幸いと思います」と言いなさい。くれぐれも奉行人に、へつらうような様子があってはならない。「この所領は、主君からいただいたものではありません。主君の御病気を法華経の大良薬をもって助け奉って、いただいた所領ですから、それを取り上げるならば、また御病気が再発するでしょう。その時になって、頼基(金吾)に謝罪されても、もはや用いません」と、言い放って、憎々しげに帰りなさい──。
 正法ゆえの迫害で何かを取り上げられても、それは「法華経への御布施」となる──ゆえに大功徳となるのである。また本来、私どもの御供養は、すべて御本尊、そして大聖人に御供養したものである。その「信心」に「大福徳」が伴うことは間違いない。
 一方、その「真心」を裏切り、「大聖人への御供養」を、私物化し、横領するようなことがあれば、因果の理法で厳然と裁かれるであろう。
19  仏法は一切衆生を幸福に
 世界は広い。大きい。六十億もの人間が、それぞれ「幸福」を願い、「希望」を抱(いだ)いて、それぞれの人生を生きている。
 いわんや「幸福」になるための信仰である。仏法である。大聖人はこの信心で「釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」と仰せである。一切衆生を仏に──これが御本仏の御心みこころであられた。
 信徒をいじめ、苦しませる──そんなものが大聖人の仏法であるはずがない。日蓮門下の「正統」であるはずがない。大聖人の御精神とは「無縁」の仏法破壊のやからなど、悠々と見下ろし、我が人生を飾っていけばよいのである。何一つ、心配する必要はない。学会は何も困らない。
 学会にこそ、大聖人の「正統」がある。歓喜と勇気に満ちた「正法の世界」、希望に燃えた「正しき信心」がある。人生を最高に遊楽できる「正しき道」がある。私どもは、この「大確信」で、我が創価学会の「栄光の道」を、楽しく、堂々と進んでいきましょう!
 大学会の皆さん、本当にご苦労さま!。また、「渋谷ここにあり」との雄姿を示してくださった渋谷の皆さまも、ご苦労さまでした。全国の皆さま、きょうは、ありがとう!おめでとう!

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