Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一回アメリカ青年研修会 大仏法の求道を、知識は世界に

1991.10.1 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

前後
12  妙法は「一切法」を蘇生
 仏法を知らない日向は、日興上人を「外道」よばわりした。仏法を究めておられる日興上人は、反対に「外典を学べ」と強く主張された。
 ここには、対照的な仏法観があると思われる。すなわち、一部の専門家にだけ通用するような、狭い世界に仏法を閉じ込めるか、「一切法皆仏法」と、大きく開いていくかである。
 「外典」を知らずして、どうして外に広宣流布できようか。わかりやすく対比すれば、日向のは″死せる仏法″であり、日興上人は″生きた仏法″を教えられたと拝される。そして、この″生きた仏法″の正流を継いでいるのがSGIなのである。(拍手)
 はじめに戸田先生の言葉を引いて述べたように、妙法を根底にする時、一切法は、おのおの最も価値的な働きを始める。政治、経済、学問をはじめ、すべてが生き生きと活性化していく。開いてくる。蘇生してくる。
 その「一切法」への脈動に仏法の生命があり、「一切法」と離れてしまっては、仏法の力を十分に発揮させることもできない。
 また日向は、学問のある日興上人を妬んでいたのかもしれない。
 哲学者キルケゴールは「行動と情熱がなくなると、その世界は、妬みに支配される」(『現代の批判』〈『キルケゴール著作集』11所収、自水社〉に、「情熱がなくて大いに反省的な時代においては嫉妬が消極的統一原理になる」〈飯島宗淳訳〉とある)指摘指摘した。この一点に、彼の「現代批判」の核心もあった。すべてを″水平化″させる――すなわち足を引っぱる悪知、と。
13  ともあれ、仏法は、社会へ、時代へ、民衆へと、つねに生き生きと脈動すべきものである。
 戸田先生はある講義で、質問を受けた。「インド、中国で仏法は滅びたと言われるが、そこには、ちゃんと経典もあるではないか」との問いである。
 戸田先生は、強い調子で答えられた。
 「経典があると言ったって、経典は仏法じゃありません。あれは本ですよ、本です! 信仰がなければただの本にすぎないのであって、いくら経典や、寺があったって、もはや仏法は死んでいるのです」――と。
 たとえば、いくら大聖人の御真筆があっても、″邪宗″となった寺に大聖人の仏法の生命はない。仏法の生命は、生きた「正しき信心」にある。その「信心」を伝え、仏法の生命を伝えるのが「師弟」の関係である。
 大聖人、日興上人の仰せどおりに進んでこそ、仏法は万年に清らかに流れていく。師敵対の「日向の末流」に従っては、仏法の心を殺す大罪となる。
 師敵対の日向は、何重もの意味で、大聖人の仏法を破壊しようとした。日興上人は、外道よばわりされながら、師の教えを守り、仏法の生命を守った。このコントラスト(対照)は、万年までの鏡である。
 どうか、若き諸君たちの力で″世界一のアメリカ創価学会″を築いていただきたい。″世界広布のセンター″をよろしく! きょうは本当におめでとう。
 (アメリカ創価大学)

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