Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ボストン勤行会 仏法に「権威の階層」はない

1991.9.27 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

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10  ここには重大な意義がある。その一つは、この教えは悪の″権威主義″と、まっこうから対立する――ということである。
 「距離が権威を生む」という言葉がある。遠いところ、手が届きにくい高いところにあるものを尊く思う人間の愚かさをついた言葉である。
 御書には「世人は皆遠きを貴み近きをいやしむ但愚者の行ひなり、其れ若し非ならば遠とも破すべし其れ若し理ならば近とも捨つべからず」と。
 ――世の人は皆、遠きを尊び近きを卑しむ。これはただ愚者の行いである。もし誤ったものならば遠くとも(遠き先師の説でも)破すべきであり、もし道理なら、近くとも(近来の説でも)捨ててはならない――と仰せである。
 これは時間の遠近についての仰せであるが、空間についても同様の真理であろう。人間は身近なものの尊さを忘れがちなのである。しかし仏法は、″今″″ここ″の生活と現実を大切にする。
11  ″どこか″特定の場所に行かねばならないということになると、どうしてもそこに近い人間が権威をもつことになる。そして、近い順番に権威の階層(ヒエラルキー)ができていくであろう。″外なる神″を説く宗教では、遠い神や天国と、民衆とを結ぶ″橋わたし″の役割をする人々が、特別の権威をもった面があるかもしれない。
 それに対し、仏法では、衆生が即、仏の当体であると説く。どこか別世界に仏が存在するのではなく、衆生の″内側″に仏性があり、″その場″が寂光土となると、とくに法華経は強調している。
 この面から考えても、大聖人の仏法には本来、権威主義の入る余地はないのである。真に尊厳なるものは御本尊しかない。仏界しかない。そして、「仏」は″今″″ここに″おわします。
 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり
 ――この御本尊は、まったく、よそに求めてはならない。ただ、われら衆生が法華経を持って、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団におわしますのである。これを九識心王真如の都というのである――と大聖人は仰せである。
12  最蓮房へのお言葉は、また「世界広布の時代」、そして「地方の時代」の根本的な指針でもある。どこにあっても″その場″が世界広布の本舞台である。どこにあっても″その場″が寂光土となる。
 どうかボストンの皆さまは、わがふるさとボストンが、またわが地域、わが家庭こそが「常楽の都」と確信し、幸福の光で輝かせていっていただきたい。さらに楽しく、さらに朗らかに、良識豊かに、「だれよりも自分は幸せだ」と言いきれる人生を、謳歌していっていただきたい。
 ご主人は奥さまを大切に、奥さまはご主人を大切に、ご両親はお子さんを大切に、子どもは両親を大切に――。この平凡な実践のなかに、着実な「信心即生活」の軌道の上に、仏法者の正しい姿がある。福徳も満ちてくる。
 この四日間、本当にありがとう。最大に感謝します。皆さまの「世界一の人生」「世界一のご家庭」をお祈りし、シー・ユー・アゲイン(また、お会いしましょう)!
 (ボストン会館)

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