Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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鳥取・島根代表記念勤行会 御本尊において三宝は相即

1991.9.8 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

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4  過去にも、正信会の悪侶たちが、法主を絶対化し、その権威をふりかざして学会員を迫害した事実を、私どもは絶対に忘れることはできない。
 世間でも、権威、権力をもつ存在に、追従し阿諛した(相手の気に入るようなことを言ってへつらう)者が、虎の威を借る狐のように、民衆を見くだし、圧迫した例は、古今東西の歴史に枚挙にいとまがない。
 大聖人は、「佐渡御書」において、次のように御指摘である。
 「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる諛臣ゆしんと申すは是なり
 ――畜生の心は、弱い者を脅して、強い者を恐れるのである。今の世の諸宗の学者は、畜生のようなものである。智者が弱い立場であることを侮り、よこしまな王法(権力)を恐れるのである。諛臣(こびへつらう家来)というのは、こういう者をいうのである――。
 悪侶たちは、まさに畜生のように、権威をかさに、信徒を見くだして、誹謗し、脅し、迫害したのである。
5  複雑な理論を展開するまでもない。たとえば、牧口先生は、時の日恭上人の立ち会いのもと「学会も一応、神札を受けるようにしてはどうか」と申し渡され、「承服いたしかねます。神札は絶対に受けません」と拒否し、これがもとで投獄され、獄死された。時の法主の意向に「信伏随従」しなかったわけである。
 ″法主の言葉には絶対服従すべきであり、それが正宗の根本の一つ。従わないのは、すべて謗法″と主張する人は、牧口先生の殉教も、戸田先生の入獄も、すべて謗法の結果だというのだろうか。冷静に考えれば、すぐにわかることである。(拍手)
 「極端な服従は服従する者における無知を前提とする」(『法の精神三一通博之訳、岩波文庫)という、モンテスキューの有名な言葉がある。権威や権力に、無条件に服従するということは、服従する者が無知のために、それが当然のように思い込んでいるだけの場合が多いのである。それではあまりにも愚かである。自分も周囲をも不幸にする。
 正法を信ずる者は、賢明でなくてはならない。正義を装った邪義に、決してたぶらかされてはならない。そのためには、あくまでも法の道理を基準にすることである。仏法の本義をもととして、正邪、善悪を正しく判断することである。
 あまりにも明確であり、論ずるまでもない「基本」であったかもしれない。しかし最近、この「基本」を忘れている人が多いようだ(爆笑)。そこで少々語らせていただいた。
 「正しき人」は、「楽しき人」である。堂々と頭を上げて、だれよりも愉快な、だれよりも充実した青春であり、人生であっていただきたい。
 (米子文化会館)

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