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日蓮大聖人・池田大作

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山光総会・音楽祭、中国総会、宮崎県総会… 民衆の歌が魂の夜明けを告げる

1991.9.8 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

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15  修行は「日蓮が如くに」
 大聖人の門下の富木常忍の家系は、もともと因幡の国、すなわちこの鳥取の出身である。(富木常忍は下総の国〈現在の千葉県〉に住んでいたが、出身地は因幡国である。「富士一跡門徒存知の事」には「因幡国富城荘の本主・今は常住下総国五郎入道日常に賜わる」と記されている)
 この当地ゆかりの富木常忍は、有名な御書「治病大小権実違目(治病抄)」を与えられている。この御書を鳥取県青年部は研鑽を重ねてきた。その成果をまとめた論文を昨日拝見した。正法求道の労を心からたたえたい。(拍手)
 さて、大聖人は「四菩薩造立抄」で、富木常忍に次のように仰せである。
 「私ならざる法門を僻案びゃくあんせん人はひとえに天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし
 ――個人のものではない(大事な)法門を、曲げて考える人は、ひとえに天魔がその身に入り代わって、他人を、自身とともに無間地獄に堕としてしまうのである。愚かなことだ。愚かなことだ―――と。
 御本仏大聖人の法門を、みずからの都合のいいように曲解するのは、天魔がその身に入っているのだ、と厳しく叱られている。
 自分だけ地獄に堕ちるのではなく、罪もない人々をたぶらかして巻き込んで、ともどもに無間地獄の道を歩むのである。私どもは、鋭くその正体を見破らねばならない。(拍手)
 続いて、このように述べられている。
 「此の法門は年来貴辺に申し含めたる様に人人にも披露あるべき者なり総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ、さだにも候はば釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし
 ――この法門(末法は法華経の「本門の時」であるが、かといって述門を捨ててはならないとの法門)は、長年、あなたに申し含めてあるように、人々にも披露されるがよい。総じて、日蓮の弟子といって法華経を修行する人々は、日蓮のようにしなさい。そのようにされるならば、釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏、十羅刹女も必ず守護されるでしょう――と。
 「人人にも披露あるべき者なり」と仰せのように、正しき法門、正道と正義を多くの人々に語り、伝えていかねばならない。黙っていてはならない。
 「日蓮が如くに」との御指南である。私どもは、この仰せどおりに、″信心は大聖人の時代に還る″決意で、正道を歩んできた。(拍手)
 大聖人も諸御抄に涅槃経の文を引いて「法に依つて人に依らざれ」と仰せである。
 大聖人以外の「人」を根本としてはならない。だれ人が御本仏のお心に背く法門を説いたとしても、われわれは決然と御書どおりの実践をすればよい。そこにこそ、釈迦仏、多宝仏、十方の諸仏、諸天の加護があるのである。また、必ずや御本仏のおほめにあずかるものと確信する。(拍手)
16  さらに「諸経と法華経と難易の事」では、富木常忍に対して、このように御指南されている。
 「幸なるは我が一門仏意に随つて自然に薩般若海に流入す
 ――さいわいなのは、わが一門である。仏の心にしたがって、自然に仏の広大無辺な薩般若海(智慧の海)に入ることができる――と。
 仏の心に従うことが仏法の肝要である。末法にあっては、大聖人が御本仏であられる。大聖人に従うことこそ根本である。この一点を心に刻めば、いかなる天魔の所業にも、決して攪乱されない。
 私どもは、大聖人の仰せのままに行動する。そこには、自然と知恵がわく。無限の「希望の海」と、永遠の「幸福の海」を悠々と航海していけるのである。
 ともどもに、この福徳あふれる″長者″の道を楽しく進みながら、永遠に崩れぬ堂々たる″山光の広布の大牙城″を築いていきたいと申し上げ、お祝いのスピーチを結びたい。
 皆さん、どうか、お元気で!一人残らず長寿であってください。大満足の一生であってください。
 (米子文化会館)

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