Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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所沢広布四十周年祝賀の埼玉県記念総会 民衆のための宗教革命こそ正道

1991.8.11 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

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9  人間の心は限りなくデリケートである。
 「諸法実相抄」の次の御文は、あまりにも有名である。
 「ほめられぬれば我が身の損ずるをも・かへりみず、そしられぬる時は又我が身のやぶるるをも・しらず、ふるまふ事は凡夫のことはざなり
 ――ほめられると、わが身が損なわれるのも顧みず、(また逆に)そしられるとわが身が破れることも知らずに振る舞うのは、凡夫の常である――と。
 人はほめてあげると、頑張ろうと思って動く。冷たくされ、また自分を認めてくれないと思うと、どうしても心が離れていくものだ。
 凡夫は、正邪・善悪よりも感情によって動く傾向がある。それが現実である。ほめられるから、大切にされるから、あっちに行こう。また、たとえ正しくとも、叱つてばかりだからいやだ――弱いといえば、まことに弱いが、これが人間の心である。
 その結果、わが身を損ね、わが身を破る結果にもなってしまう。その最大のものが「退転」である。いうまでもなく、仏法の「法」のうえには、絶対に妥協はない。また正義を貫くのに、遠慮があってもならない。
 そのうえで、こうした「人情の機微」を深く知っているか否か――それによって百八十度違う結果にもなっていく。仏法即社会であり、一切法は皆仏法と説かれる。広布のリーダーは、だれよりも人の心がわかる聡明な人であっていただきたい。(拍手)
10  信心の「高貴なる位」を確信
 妙法を胸にいだき、社会に弘めゆく人の位が、どれほど高貴なものか。御書には、さまざまな表現で、そのことが説かれている。
 たとえば、次のように仰せである。
 「法華経を持つ人は男ならば何なる田夫にても候へ、三界の主たる大梵天王・釈提桓因しゃくだいかんいん・四大天王・転輪聖王乃至漢土・日本の国主等にも勝れたり、何にいわんや日本国の大臣公卿・源平の侍・百姓等に勝れたる事申すに及ばず、女人ならば憍尸迦女きょうしかによ・吉祥天女・漢の李夫人・楊貴妃等の無量無辺の一切の女人に勝れたり
 ――法華経(御本尊)を持つ人は、男であればどんな身分の低い人であっても、三界の主である大梵天王、釈提桓因(帝釈天)、四大天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)、転輪聖王、また中国・日本の国主等よりも勝れている。まして、日本国の大臣や貴族、源平の武士、さまざまな身分の人などより、勝れていることはいうまでもない。また女性であれば、憍尸迦女きょうしかにょ(帝釈天の夫人)、吉祥天女(多聞天の妃ともされ、美貌の福徳の女神)、中国の李夫人(絶世の美女とされる漢の武帝の寵妃)、楊貴妃(唐の玄宗皇帝の寵妃、当時随一の美人)などの無量無辺の一切の女性よりも勝っている――と。
 最高の御本尊を信受し、大聖人の仰せのままに、仏法を実践している私どもは、諸天や諸王等にも勝って、限りなく尊いとの御断言である。
 学会がどれほど尊貴か、学会員が、どれほど高貴か。皆で学会を大切に守らねばならない。学会員を大切に守りぬかねばならない。(拍手)
 もちろん社会的礼儀は礼儀として、心の奥には、深く、この「誇り」をもって生きぬいていただきたい。その大確信の一念が、現実に、だれ人にもバカにされることのない堂々たる自身をつくっていく。
 どうか皆さまは、偉大なる誇り、一局貴なる魂、堂々たる自負心(プライド)をもって、この人生を悠々と獅子のごとく、生きて生きぬいていただきたい。そして日本一、世界一の所沢と埼玉を築いていただきたい(拍手)。所沢万歳! 埼玉万歳!
 (所沢文化会館)

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