Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

広布三十周年イギリス記念総会 「正義の道」「良識の道」「満足の道」

1991.6.25 スピーチ(1991.4〜)(池田大作全集第77巻)

前後
12  次元は異なるが、大聖人は、「御義口伝」にこう仰せである。
 「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなりあに今者已満足こんじゃいまんぞくに非ずや、已とは建長五年四月廿八日に初めて唱え出す処の題目を指して已と意得可きなり、妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり此れを思い遣る時んば満足なり満足とは成仏と云う事なり」と。
 ――今、日蓮(大聖人)が唱える南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生を、ことごとく成仏せしめるのである。どうして法華経方便品に説かれる「今は已に満足した」の経文どおりでないことがあろうか。「已に」とは日蓮が建長五年(一二五三年)四月二十八日、初めて唱え出したところの題目をさして「已に」と心得るべきである。妙法の大良薬をもって、一切衆生の無明(根本の迷い)の大病を治せることは、疑いないのである。これを思いやるとき、日蓮は満足なのである。「満足」とは、成仏ということである――。
 永遠の未来にわたって、全人類をつつみゆかれる御本仏の大境界であられる。
 私どもは、この御本仏の仏勅のままに、一人一人の友の胸中に崩れざる″満足″の王冠を輝かせてまいりたい。どこまでも御書の仰せが根本である。私どもは大聖人の門下であり、根本の師・日蓮大聖人の御聖訓のままに進む。
 ともあれ、このタプロー・コートは、最極の生命の王冠をもてる人が集い来る「幸福の王者、幸福の女王の宮殿」である。
13  信仰は自身の幸福への権利
 仏道修行は、水の流れるように″たゆまず″前に進むことが大切である。忙しいときや疲れきっているとき、その他、さまざまな事情で甑征が戒肇にはできないときもあるかもしれない。そういうときは方便品・自我偶の勤行、また唱題だけでもよいと思う。ただ決して、止まらないこと、やめないこと、続けることである。
 ともあれ、だれが決めるのでもない。信仰は自身の「権利」である。やった分だけ、境涯は開け、自分が磨かれるのである。
 御書には「此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり」――日蓮の門下は、妙法を正しく信受するゆえにこの御本尊の宝塔の中へ必ず入ることができる――と仰せである。
 自身の宝塔を開く、それは同時に、依正不二で、御本尊という根本の「宝塔」の中に入ることになる。″宝の塔″に住む、自在の境涯である。
 ゆえに勤行は、壮麗な″宝の塔″に向かって、天馬、名馬、駿馬にまたがり進むように、生命の勢いと張りのあるものであっていただきたい。
 別の讐えでいえば、ジェット機が、またロケットが大空へと飛びゆくように、法性の大空へ、幸福の青空へ、勤行・唱題のエンジンで、生命力豊かに、また軌道正しく、飛翔していくのである。
14  弘法ぐほうについても、決してあせる必要はない。入信したいという人については、当然それはうれしいことであるが、決して無理をしてはならない。
 一人一人が立派に育っていくことがもっとも重要である。一人の厳たる「灯台」があれば、家族、友人、地域、社会もみな安心である。自身がその灯台になることである。
 また折伏がむずかしいのは、経文と御書に照らし当然といえる。大事なのは、相手を思い、法を弘めようという「一念」である。「祈り」である。その一念、祈りがあれば、それ自体が自身の成仏の因となっていく。
 何があっても御本尊に、深く祈念し、題目を唱えていく。その「信心」「信行」の種が、時とともに必ず「絶対の幸福」の大樹と育っていく。これが「冥益」である。″持続″こそ信仰の要であることを重ねて強調しておきたい。
 どうか、どこまでも朗らかに、楽しく、どこまでも仲良く、悠々と生きぬいていただきたいと念願し、次の三十年への出発のスピーチを結びたい。(タプロー・コート総合文化センター)

1
12