Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一回ベネルクス三国最高会議 一人が宝、一人が基盤

1991.6.10 スピーチ(1991.4〜)(池田大作全集第77巻)

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9  「多きが尊く、少なきが卑きにあらず」
 学会の草創期、人数の少ないことを嘆く友に、牧口先生は、次の御書を拝して指導し、励まされた。それは「聖愚問答抄」の一節である。
 「先ず汝権教・権宗の人は多く此の宗の人はすくなし何ぞ多を捨て少に付くと云う事必ず多きが尊くして少きが卑きにあらず、賢善の人はまれに愚悪の者は多し麒麟きりん鸞鳳らんほう禽獣きんじゅうの奇秀なり然れども是は甚だ少し牛羊ごよう烏鴿うごうは畜鳥の拙卑なりされども是はうたた多し、必ず多きがたつとくして少きがいやしくば麒麟きりんをすてて牛羊ごようをとり鸞鳳らんほうを閣いて烏鴿うごうをとるべきか、摩尼まに・金剛は金石の霊異なり、此の宝は乏しく瓦礫がりゃく・土石は徒物いたずらものの至り是は又巨多こたなり、汝が言の如くならば玉なんどをば捨てて瓦礫を用ゆべきかはかなし・はかなし
 ――あなた(愚者)が前に、権教・権宗の人は多いがこの宗(法華経を信ずる人)は少ない。どうして、多数を捨てて少数につくのか、と質問したことに答えましょう。
 必ずしも、数が多いから尊くて、少ないから卑しいのではありません。賢善(賢く善い)の人はまれで愚悪(愚かで悪い)の者は多い。麒麟や鸞鳳(ともに中国の伝説上の動物)は鳥や獣の中で珍しくすぐれたものとされる。しかし、これはきわめて少ない。それに比べ牛や羊、カラスやハトは動物、鳥の中で劣ったものであるが、これは、非常に数が多い。必ず多数が尊く、少数が卑しいならばすばらしい存在のキリンを捨てて牛や羊をとり、鸞鳳をさしおいて、カラスやハトをとるべきであろうか。マニ(サンスクリット語で宝珠)や金剛(ダイヤモンド)は、金属や石の中で霊宝であるが、この宝は乏しい。瓦礫や土石は無用の究極であるが、これは限りなく多い。あなたの言うとお
 りならば、宝の玉を捨てて瓦礫をとるべきであろうか。まことにはかないことである――。
 「聖君はまれにして千年に一たび出で賢佐は五百年に一たび顕る摩尼は空しく名のみ聞く麟鳳りんほう誰か実を見たるや世間出世・善き者は乏しく悪き者は多き事眼前なり、然れば何ぞあながちに少きを・おろかにして多きを詮とするや土沙は多けれども米穀はまれなり木皮は充満すれども布絹は些少さしょうなり、汝只正理を以てさきとすべし別して人の多きを以て本とすることなかれ
 ――聖人・君子はまれであり、千年に一度、出現する。補佐役の賢臣は五百年に一度あらわれる。マニ(宝珠)はむなしくその名を聞くのみであり、麒麟や鸞鳳もだれが実際に見たであろうか。世間、出世間(仏法の世界)ともに、善人は少なく悪人が多いことは眼前の事実である。したがってどうして、いちがいに数が少ないからといって卑しみ、多いからといって重要とするのか。土砂は多いけれども米穀はまれである。木の皮は充満しているけれども布絹はわずかである。あなたはただ正理を第一とすべきであり、ことに人数の多いことを根本としてはなりません――と。
 この仰せのとおり、学会は正しき道理を第一として、大聖人の仏法を、世界に弘めた。この歴史は、あまりにも尊い。
10  ″小さな城″をこそ完璧に
11  ルクセンブルクという名前には「小さな城」(小さいけれども難攻不落の城)という意義がある。その名のとおり、″良き人″と″良き人″の集いで、三世にわたる、すばらしき不滅の幸福の城を築いていくことである。
 小さくてよい。あせらないでよい。どうか、この″われらが宝城″を粘り強く完璧につくりあげていただきたい。そして、この「緑のダイヤモンド」ルクセンブルクの光彩を、いやまして輝かせていただきたい。
 本日、集われたベネルクス三国、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの友は、ともかく仲良く進んでいただきたい。″妙法の宝をもった人に恐れるものはない″――この確信で、人生を、悠々と、生きて生きて生きぬいていっていただきたい、と申し上げ、本日の私のスピーチとしたい。(拍手)
 本日、お会いできなかった皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えください。本当にありがとう! おめでとう!(ルクセンブルク市内)

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