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日蓮大聖人・池田大作

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第三十八回本部幹部会・第一回宮崎県記念… 正法を持つ人はみな仏

1991.2.11 スピーチ(1991.1〜)(池田大作全集第76巻)

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15  「御本仏の門下」の誉れは無上
 ここで御書(「松野殿御返事」)を拝したい。青年時代、戸田先生に講義を受け、たいへんに感動した一節である。
 「何に賤者なりとも少し我れより勝れて智慧ある人には此の経のいはれを問い尋ね給うべし
 ――どんなに社会的に身分の低い者であっても、仏法のことについて、少しでも自分より優れ、智慧のある人に対しては、この経(法華経)のいわれを問い、求めていかれることです――。
 「しかるに悪世の衆生は我慢・偏執・名聞・名利に著して彼れが弟子と成るべきか彼れに物を習はば人にや賤く思はれんずらんと、不断悪念に住して悪道に堕すべしと見えて候
 ――しかし、末法悪世の衆生は我慢(慢の一種)をいだき、偏った考えへの執着をもち、名聞名利に執着して、「あのような人の弟子となるべきであろうか。もし、あのような人に、ものを習えば、人から軽蔑されるであろう」と、つねに悪念を断ずることができず、ついには悪道に堕ちると経文には説かれております――。
 本来、求道の心は、相手の地位を選ばない。大切なのは「法」であり、「人」の立場ではないからだ。これが仏法の根本精神である。だれ人も納得する人間性と民主のお言葉である。
16  また、大聖人はこうも仰せである。
 「此の経の四の巻には「若しは在家にてもあれ出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり」と見へたり
 ――法華経第四の巻(この場合、法師品第十)には「もしも、在家であれ出家であれ、法華経を持ち、説く人に対して、だれかが一言でも、そしることがあれば、その罪の多いことは、釈迦仏を一劫(約八百万年という説がある)の間、面と向かってそしった罪以上である」と説かれている――。
 「は「若実若不実」とも説かれたり、之れを以つて之れを思ふに忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり。加様に心得て唱うる題目の功徳は釈尊の御功徳と等しかるべし、
 ――あるいは、普賢菩薩勧発品第二十八に「事実にせよ事実でないにせよ、法華経を持つ者の悪口を言えば、その罪は重い」(趣意)とも説かれている。これらの経文に照らして考えるならば、かりにも法華経を信受する者を、たがいにそしる(悪意の心でののしる)ことがあってはならない。その理由は、法華経を持つ者は必ず皆仏なのであり、仏をそしれば罪を得るからである。このように心得て唱える題目の功徳は、釈尊の唱える題目の功徳と等しいのである――。
 法華経によれば、「法華経を持ち説く者」とは、妙法を受持し、いかなる圧迫があろうとも、民衆のなかで広宣流布へと戦う人のことである。
 その広布の戦士には、いかなる差別もない。在家であれ、出家であれ、尊き仏の使いであり、仏であると説かれている。その人を、悪意をもって、ことさらにおとしいれ、見くだしていく人は、たいへんな罪を得る、仏敵となると仰せである。
 ともあれ私どもは、経文のまま、御書の教えのままに進む。ゆえに何ものも恐れない。一切は時とともに明確になっていく。(拍手)
 「世界一の学会」、また「世界一の宮崎」をめざしていきたい。信心の世界で、世界一をめざし、祈り、努力していくことは、因果倶時で、自分自身が世界一の長者、幸福者となっていくからだ。
 私どもは御本仏の真実の門下として、何があっても堂々と、朗らかに獅子工のごとく、生きぬいてまいりたい。学会によって発心し、学会によって育てられ、幸福になった私どもである。この尊き一生を、学会とともに、最高に晴れやかな勝利で飾っていただきたい。(拍手)
 お会いできなかった方々に、くれぐれもよろしくお伝えください。また、お会いしましょう!
 (宮崎平和会館)

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