Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

沖縄・国頭圏記念勤行会 「無二の信心」に永遠の幸福

1991.2.6 スピーチ(1991.1〜)(池田大作全集第76巻)

前後
7  さて「生命への畏敬」という言葉がある。これはシュヴァイツアー博士(哲学者・医師。一九一三年、アフリカに渡り、医療活動に従事する)が晩年、強調した思想である。
 博士は、アフリカの自然の中で痛感した。人間の生命だけを大切にするのは誤りだ。植物も動物も人間も、みな″生きんとする意志″をもっている。同じく尊い生命である、と。
 「すべての生きとし生けるもの」への畏敬――倫理も道徳も、ここに基礎をおかねばならないとしたのである。一見してわかるように、仏法に通ずる考え方となっている。
 博士によれば、生命を育み、高め、発展させることが善であり、悪とは生命を傷つけ、低め、発展を邪魔することである。こうした考えから、博士は、すべてのいのちあるものへの畏敬と責任感、慈愛をもつべきだとし、それを実践する人について、「彼は、他の生命を自己の生命の中に体験する」と表現している。(以上は、『シュヴァイツアー著作集』氷上英廣訳、白水社。小牧治・泉谷周三郎『シュバイツァー』清水書院を参照)
 自分のいのちの中に、他の人の苦しみや喜びを、悲しみや希望を追体験し、味わう。一体となって、あたたかく鼓動する。そして、その人のために行動する。これは、まさに菩薩の行である。しかも人間のみならず、すべての生命へと、その慈愛の境涯を広げていくべきだというのである。
 博士の表現は若千むずかしいが、内容は、私どもこそがつねに実践していることである。「一念三千」の法理で、信心の一念は、限りなく広がり、国土をも慈悲の暖流でつつむのである。
 「他の生命を自己の生命の中に体験する」――この心があれば、戦争もない。策謀も傲慢もないであろう。どれほど、平和で幸福な世界となることか。
 ″生きとし生けるもの″がみな輝いている美しき沖縄、そして名護の地を訪れた機会に、一言、述べさせていただいた。
8  唱題の功徳は万人に平等
 日蓮大聖人は、門下から、「聖人」の唱えられる題目と、われらが唱える題目と、功徳はどのように違うのでしょうかと問われて、「更に勝劣あるべからず候」――決して、一方が勝り、一方が劣っているということはありません――と断言しておられる。
 さらに、「其の故は愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も・愚者の然せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり」――というのは、愚者が持っている黄金も智者が持っている黄金も、また愚者がともした人も智者がともした人も、そこに差別はないのと同じである――と、わかりやすくその理由を教えてくださっている。
 たとえば、総理大臣が持っている一万円札と、私ども庶民が使う一万円札と、価値は平等である。何の違いもない。題目の功徳も、十四誹謗のないかぎり、まったく同じであると仰せである。
9  大聖人の仏法は、末法の「一切衆生」を仏にしゆく仏法である。妙法を行ずる人は皆、平等に仏となる。
 御書には「釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」――妙法の力によって釈尊ほどの仏に、やすやすとなるのである――と、御本尊の偉大さを説いてくださっている。ゆえに大切なのは、「無二の信心」である。広宣流布へと進む、自行化他の正しき信心の心である。
 日有上人はこう述べられている。
 「堂社僧坊は仏法に非ず。又智慧才覚も仏法に非ず。多人数も仏法に非ず。(中略)信心無二にして、筋目を違へず、仏法修行するを仏道修行、広宣流布とは云ふなり」(「有師談諸聞書」、富要二巻)
 仏法、仏法といっても立派な伽藍にあるのでも、才覚や人数にあるのでもない。御聖訓のまま、少しも違えない「無二の信心」のなかに仏法はある。また広宣流布はある、との言と拝する。
 形式でも地位でもない。この強盛な「信心」があるかどうか、である。日有上人のお言葉を拝すれば、学会に正しき「無二の信心」があるゆえに、だれ人もなしえなかった世界への「広宣流布」が進んだのである。このことを確信していただきたい。また無上の誇りとしていただきたい。
 「無二の信心」ある人は、皆、仏と成り、自分自身が「永遠の幸福」の境涯を得る。それのみではない。先祖代々、子孫末代まで、福徳を回向できる自身となるのである。(拍手)
 沖縄は日本とアジアを結ぶ一大センターである。明年もアジア各国の代表、また日本の各方面の代表が集う予定である。私も訪れ、名護の皆さまにも、またお目にかかりたいと願っている。(拍手)
 それでは、いつまでもお元気で。お会いできなかった方々に、くれぐれもよろしくお伝えください。きょうは本当にうれしい一日となりました。
 (名護平和会館)

1
7