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日蓮大聖人・池田大作

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第十二回関西総会・第四回全国壮年部幹部… 信仰こそ人間の最高の誇り

1990.10.26 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

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20  大聖にほめられる名誉の一生を
 さて、大聖人は「開目抄」で次のようにご教示されている。
 「教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈せられさせ給い天台大師の南北・並びに得一に三寸の舌もつて五尺の身をつと伝教大師の南京の諸人に「最澄未だ唐都を見ず」等といはれさせ給いし皆法華経のゆへなればはぢならず愚人にほめられたるは第一のはぢなり
 ――教主釈尊は、一切の外道に大悪人であるとののしられた。
 また、天台大師は南三北七(天台大師が、『法華玄義』で、当時の諸師を分類・整理した南地〈江南の三師〉と北地〈江北の七師〉)の十派から怨嫉され、法相宗の僧・得一からも″拙いかな智公(天台)よ、汝はだれの弟子か。三寸に足らない舌をもって釈尊の所説を謗じるとは、五尺の仏身を断つものである″と非難された。
 さらに伝教大師は、南都(奈良の都)六宗の学僧たちに″最澄は、いまだ唐の都を見ていない。仏教の中心地を知らないくらいだから、たいしたことはない″等と悪口を言われたが、これらはすべて法華経のゆえに受けた非難であるから、いっこうに恥ではない。それよりも、愚人にほめられることが第一の恥である――と。
 初代会長牧口先生は、この一節を拝して次のように言われている。
 「御書にも『愚人にほめられたるは第一のはぢなり』とあり、仏法者たる者は物事の根本、価値観を判断するさい、あくまでも仏法で説く厳しき因果関係を基準にしなければならない。ひとの毀誉褒貶に左右されては大善人とはなれない」と。
 さらに、第二代会長戸田先生は、かつて「青年訓」の中で、青年に呼びかけられている。
 「されば諸君よ、心を一にして難を乗り越え、同信退転の徒の屍を踏み越えて、末法濁世の法戦に、若き花の若武者として、大聖人の御おぼえにめでたからんと願うべきである。愚人にほむらるるは、智者の恥辱なり。大聖にほむらるるは、一生の名誉なり」(『戸田城聖全集』第一巻)と。
21  人生、だれにほめられるか。悪人にほめられるのは悪人である。愚人にほめられて喜ぶのは、その人も愚かである。まして悪人と愚人に非難されて悲しむなど、愚の極みである。彼らに敵対されるのは善人である証拠だからだ。悪口こそ″勲章″なのである。
 社会には善があれば、悪もある。平和勢力があれば、反対勢力もある。万人にほめられるわけにはいかない。
 悪は善の敵となり、善は悪に攻撃される。これは永遠に仕方のないことである。その意味で、人生は覚悟する以外ない。「愚人にほめられ、大聖に叱られる道をとるか」「愚人に迫害され、大聖にほめられる人生を選ぶか」――中間はない。
 だれにもほめられもせず、難もなく――それでは、もはや″生きている″とはいえないだろう。
 何も行動しなければ、何の障害もないかもしれない。しかし、それはもはや″死せる人生″である。また善をなす勇気がなければ、悪を助長し、結局は悪に通じよう。
 釈尊も、天台も伝教も、そして御本仏日蓮大聖人も、あれほどの攻撃を受けられた。それは″何か悪い点があったから″であろうか。断じて、そうではない。反対に、絶対に″正しいからこそ″悪に迫害されたのである。
 この道理が腹に入れば、何も恐れる必要はない。一切は霧が晴れたように、明瞭に見えてくる。
 また向かい風すら、心地よいそよ風に、そして成仏と広宣流布への追い風にと変えていけるのである。(拍手)
 「法妙なるが故に人貴し」――持つ法が妙であるゆえに、持つ人も尊貴である――と、大聖(日蓮大聖人)は御断言なされている。
 生涯をかけて正法広宣流布に進む皆さま方こそ「大聖にほむらるる」第一の資格ある方々であると確信する。
 どうか、どこまでも勇敢に、いつまでも生き生きと若々しく、スクラムとスクラムを広げながら、ともどもに最高の″名誉の一生″を飾ってゆかれんことを念願し、本日の記念のスピーチとしたい。創立七十周年を、一人残らず元気で迎えましょう!
 (京都平和講堂)

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