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日蓮大聖人・池田大作

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第五回中部総会・第二回全国女子部幹部会… みな幸福に、みな社会の勝利者に

1990.10.10 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

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19  日目上人の勇気ある弘法の実践
 仏法は即社会へ、信心は即生活へと脈動していくものでなければならない。これが日蓮大聖人の教えである。
 私どもの軌道は、この大聖人の御精神を拝し、日興上人の御指南にそって、信心で深く実践してきた帰趨であり、この軌道は、これ以外にないと、おのずから定まり、広がってきた結果であると私たちは思っている。(拍手)
 日亨上人は『富士日興上人詳伝』の中で、大聖人の弘法の方軌を論じておられる。
 すなわち、初めは「弁論」をもって、次に「文筆」を用いて教導された。対象も、「個人」から「集団」へと移り、ついに「一国の主権者」を動かす御法戦へといたられたとの考察である。さらに、日興上人も、第三祖日目上人も、この大聖人の弘法の方軌に基づいて、立正安国への御行動を貫かれた、と。
 ご承知のように、日目上人が天奏の途次、御遷化されたのが、この中部の美濃(岐阜県)垂井の地である。日亨上人は、次のように書かれている。
 「開山遷化の直後、その嗣法日目上人は老躯にむちうって、寒中悲壮の西上を企て美濃の雪原に志をもたらして凍死せらるること、万世に懦夫だふをして起たしむるの概あり」
 ――日興上人の御遷化の直後、その法を継がれた日目上人は、老体(当時七十四歳)に鞭打って、寒中に悲壮なる西上の旅(京都に上る旅)を計画実行し、美濃の雪原にその志を運んで凍死された。このお姿は、万代にわたって、臆病な者たちを奮起せしむるであろう趣がある――。
 日目上人の御遷化のお姿は、門下の永遠の亀鑑(手本)であり、何ものをも恐れぬ勇気をもって広宣流布に進むべきことを教えてくださっている、とのご指摘である。
 法華経寿量品には「或示己身。或示他身(或いは己身を示し、或は他身を示し)」云云(開結四九九㌻)と説かれている。仏は十界のさまざまな身を現じて衆生を教化されるというのである。雪中での死というお姿をみずから示された日目上人にも、「万世に懦夫をして起たしむる」深甚の意義を拝することができると、日亨上人は示されているのである。
 また総じては、凡夫である私どもも、御本尊に照らされた生活は、根底的にはすべて「成仏」へ、絶対的な「幸福」へと向かう一日一日であることを疑ってはなるまい。
 ゆえに信心の眼で見るならば、すべてに意味がある。信心がある限り、その時はわからなくとも、必ずや自分自身の最高の「人生勝利」へのバネとなり、一里塚となっている。このことを確信するならば、私どもの一生は、根本的に大歓喜の人生なのである。(拍手)
 ともあれ、開創七百年という大佳節に、また創立六十周年という喜びの年に、世界四十力国・地域の青年リーダーを、日目上人有縁の天地・中部に迎えることができた。このことを、ともどもに喜び、ともどもにすばらしき自身の歴史として、つづり残していただきたい。(拍手)
20  なお日亨上人は、続いて書いておられる。
 「弘教はもとより一般の大衆に対するがゆえに、時機を顧みずして、みだりに主権者のみによるべきにあらず、いわんや、独裁政治にあらざる時代においてをや」
 ――弘教は、もとより一般の大衆に対して行うものであるがゆえに、時と機根を考慮することなく、みだりに政権の中心者のみに弘教するべきではない。いわんや過去のような独裁政治でない時代においては、なおさらである――と。
 仏法の本来の弘法の精神は、民衆の中で、民衆に対して行うものである。それを大前提として、それぞれの時代に応じ、それぞれの社会の状況を冷静に見つめながら、最大に価値ある行動をとっていくことが必要となる。
 これが日亨上人の教えである。また日蓮大聖人の御精神と拝される。私どもの前進は、こうしたお言葉に深くかなったものであることを確信していただきたい。(拍手)
21  闊達に「信心即生活」を
 信仰は、ともすれば個人をも狭い世界に閉ざしてしまう傾向がある。勤行や活動についても、何となく窮屈な圧迫感や義務感に苦しむ場合もあるかもしれない。
 しかし大聖人は、妙法を持ったわが身の中に生命の宮殿があると仰せである。その荘厳なる宮殿を開いていくための仏道修行であり、全部、自分自身のためである。このことを自覚すれば、一切は喜びに変わる。自覚できなければ、これくらい苦しいものもないであろう。
 この意味で、信仰は義務ではない。権利である。いたずらに形式にとらわれ、不自由な思いをするためのものではない。もっとも自由にして、闊達に、賢明に、人生をエンジョイしていくための信仰なのである。
 また仏法では「不改本位の成仏」と説く。これは九界の凡夫が、それぞれの本来の位を改めることなく、そのまま即身成仏するとの教えである。
 私どもが生活している、まさにその場所で、そのままの姿で、生きていること自体が楽しいという絶対的幸福の境涯を開くことができるのである。
 ゆえに、だれ人をうらやむ必要もない。何を嘆く必要もない。「足下を掘れ、そこに泉あり」との言葉があるが、御本尊を持ち、広布に進む、ほかならぬわが地域が、わが家庭、わが人生の舞台が、そのまま常寂光土(永遠の仏の国土)と輝いていくからである。
 このことを確信し、堂々と、朗らかに、自分自身の所願満足の歴史を刻んでいっていただきたい。(拍手)
 最後に、中部の皆さまのご健康とご長寿を心よりお祈り申し上げたい。
 また、男子部の諸君が、「われ一人あれば」との一騎当千の実力あるリーダーに成長されんことを期待している。
 そして全国、全世界の女子部の皆さま方が、だれよりも幸福な人生の骨格を立派に築いてくださることを重ねて念願し、本日の私のスピーチとしたい。
 (中部記念講堂)

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