Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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苫小牧での記念勤行会 人間勝利の金字塔を

1990.7.9 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

前後
8  このように、労苦の汗を流しながら、具体的な「事実」を、一つまた一つ積み重ねていく。そこにのみ尊い「歴史」がつくられていく。
 そして広宣流布への行動は、全部、自分自身の″人生の勝利″の歴史となっていく。広布は、人のため、学会のためのように思えるかもしれないが、じつは、だれのためでもない、すべてが自分の幸福のためである。自分の″一生成仏″のためである。
 仏法は「三世永遠」の生命と説く。そのうえで「一生成仏」と仰せのごとく、今世の舞台が大事である。この舞台で、思う存分、活躍し、信心の勝利を勝ち取っていく。それが「永遠の幸福」ヘの″土台″となり、″出発″となっていく。大聖人の仏法は、どこまでも「現当二世(現在世と来世)のための仏法なのである。
9  勝ってこそ歴史は作られる
 「仏法は勝負」であり、「勝つ」ことが正法の証明となる。また、勝ってこそ新しい「歴史」はつくられる。負け戦では道は開けない。
 負けることは、みじめである。都落ちし、壇ノ浦へと転落していく平家の哀れさ、悲惨さ。清盛なく、重盛なく、一族の柱を失ったあとで、だれも″勝てる将″がいない。
 そうした状況を描いたあるドラマでは、一人の母親が、息子のふがいなさに、「おまえをこんなに勇気のない人間に育てた覚えはない」と嘆くシーンもあった。しかし嘆いても、取り返しがつかない。
 「勝つ」ことが、自分のみならず、一家、一族、周囲の幸福につながる。
 広布の前進においても、大法のため、大切な仏子のために、何としても勝ちぬいていかねばならない。
 火花を散らすような峻厳なる攻防戦を勝利せずして、どんなに活躍している格好を見せても、もはや遊戯にすぎない。″進んでいる″のではなく″踊っている″だけである。とくに青年部に、このことを強く言っておきたい。
 生まれてきた以上、何の歴史も残さないで死んでいくのでは、寂しい。どうか皆さま方は、自分としての何らかの「勝利の実証」を、この人生で、晴れやかに、誇らかに示していっていただきたい。(拍手)
 もちろん「勝利」といっても、人生には、さまざまな段階がある。また、今は、苦闘のさなかの方もいらっしゃるにちがいない。それでよいのである。大切なのは「最後に勝つ」ことである。そのために、信心を貫くことである。
 野球も九回まである。途中までは、さまざまな明暗のドラマがある。途中の回まで、どんな姿であっても、九回の裏を終わった時にどうかが、すべてである。
 学校も小学校、中学校、高校、大学とある。途中までの成績も大切かもしれないが、やはり大学を卒業した時点での実力が、学びの時代の総決算となる。
10  そして私どもにとって、「最後の勝利」とは、一生成仏であり、広宣流布である。悪世での正法流布を誓って生まれた久遠の同志、御本仏の仏子の軍勢が、どこまで進むことができるか。わが地域に、どこまで妙法の不落の砦を築くかの戦いである。
 個人も、団体も、国家の盛衰も、長い日で見なければわからない。そして私たちは、つねに最終の勝利のために、根本の「勝つ原因」を日々つくっているのである。
 ゆえに、私どもにとっては途中の一切が″幸福のこやし″になる。何一つ無駄はない。妙法は円教であり、闕減けつげん(欠けるところ)がないのである。このことを確信していくのが信心の信心たる証である。(拍手)
 最後に、苫小牧の皆さまは、この地で「幸福の金字塔」「人間勝利の金字塔」を見事に建立していただきたいと念願し、記念のあいさつとしたい。
 (苫小牧平和会館)

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