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日蓮大聖人・池田大作

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第三回北海道総会・第一回全国女子部幹部… 幸福のために強き自身を

1990.7.8 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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22  最後の勝利まで屈せず前ヘ
 デイズレーリと同時代のイギリスの政治家は言っている。
 「長生きすればするほど、私は確信するようになった。強者と弱者、大人物と小人物とを分けるものは、才能でも環境でもチャンスでもない。それは『根性』であり、『底力』だ。つまり決めたあとは、何があっても不退転で進む、『勝利にあらずんば死』という断固たる一念だ」(トマス・パクストン卿)
 「絶対に勝つ」という決心――これがあるかないか。この決意こそが、個人のみならず、一団体、一国の運命をも左右していく。
 ロシアの文豪トルストイの『戦争と平和』は、私の青春の愛読書である。また以前、少々、お話ししたこともある。(=昭和六十二年七月二十一日、学生部夏季講習会。本全集第68巻収録)
 この小説で彼は、ロシアのナポレオン撃退の苦闘を描いた。その焦点となる戦いは、モスクワ近郊(百二十四キロ西)のボロジノ村での戦闘であった。この戦いの模様は、モスクフの「ボロジノ・パノラマ博物館」でも見事に再現されており、私も見学した。(=昭和六十二年五月二十七日)
 本日は詳細は省かせていただくが、この戦いの意義を、文豪はこう書いた。
 「戦力の大半を失いながら、戦闘の終わりに近づいてもなお開戦当初同様に厳然と立っている敵に対して、一様に恐怖感をおぼえていたのである。フランス攻撃軍の精神力は、つきはててしまったのだ」「敵をしてわが精神力の優位と、自己の無力を確信せしめる、あの精神的勝利を、わがロシヤ軍はボロジノにおいて獲得したのである」(『戦争と平和』中村白葉訳、河出書房新社)
 撃っても撃っても、ロシア軍は厳然として立っている。いったいどうしたのか、どうすればよいのか。これでは、いくら攻撃しても無駄ではないか――フランス軍の間に″無力感″が広がってるいった。こんな敵には、これまで出会ったことがなかった……。
 軍事上の勝敗は、どちらとも決められなかった。しかし、じつはロシア軍が勝ったのだと、トルストイは言う。「精神的勝利」「精神力の優位」を得たのだ、と。
 たしかに、後になってみれば、この戦いが分岐点であった。ロシアを亡国から救った。
 ロシアの総司令官クトゥーゾフ将軍の言ったとおりになった。「2人の兵隊、忍耐と時より強いものはほかにはない」(同前)と。
 そしてロシア人は、この忍耐力にかけては、どの国の民族よりも偉大であった。
 まず「精神力」において勝てるか否か、相手をのめるか否か。実力伯仲の戦いにおいては、「絶対に勝つ」という一念が大であるほうが勝利していくものである。
 結論して言えば「信心の一念」には無限の力がある。
23  「忍耐」には、勇気が必要である。「時」を信じ、「時」をつくりゆくにも、大いなる勇気がいる。どんな攻撃にも、びくともしなかったロシア軍の勇気は、私どもにも多くの教訓をあたえてくれている。
 ともあれ皆さまは、たとえ今はいかなる境遇にあろうとも、「最後には断じて勝つ」勇者であっていただきたい。とくに、若い方々に、このことを強く訴えておきたい。(拍手)
 私も、戦ってきた。経文に説かれたとおりの三障四魔、三類の強敵と、真正面から戦い、勝ちきってきた。
 権力や権威の鎧もなく、赤裸々な一個の人間、一人の信仰者として、戦闘しぬいてきた。戸田先生の真の弟子として、一人、矢面に立って、ここまで「世界広宣流布」を成し遂げてきた。
 私は勝った。あとは若き皆さまの番である。どう生きるのか。どう戦うのか。全部、自分が決めることである。
24  勝つために、真剣な修行と精進を
 さて、何事も「勝つ」ことは、並大抵ではない。敵も必死である。多くの場合、紙一重で勝敗は決まる。
 たとえば、一九七六年のオリンピック男子百メートル競走。決勝に残ったのは八人であった。金メダルの選手と、八番すなわちビリの選手との差は、わずか三分の一秒もなかった。それでも勝ち負けは絶対の事実である。他のスポーツでも、こうした例は無数にあろう。
 また芸の世界で、こんなことがよく言われる。
 ――他人の芸を見て、「自分より下)だな」と思ったら、だいたい同じくらい。「自分と同じくらいだな」と思ったら自分より上。「自分より、うまいな」と思ったら、格段の差がある、と。
 なるほど、人間だれしも、うぬばれがある。どうしても自分に甘くなりがちである。物事を簡単に考えてしまう。とくに組織においては、できあがった組織の力を自分の力と錯覚して、実力もないのに、自分が偉くなったかのように傲ってしまう。ここに大きな落とし穴がある。
 先輩が、どれほどの苦心と努力の汗また汗を流しきって「勝って」きたか。そのことをみずからの苦労で身にしみて知らねばならない。
 遠くの星は、地上からは同じような距離に見える。しかし実際には、まったく異なる。何万光年(一光年は光が一年かかって進む距離)、何十万光年離れている場合もある。それに似て、何の世界でも、一流の人物や、名人、巨匠と呼ばれる人については、低い次元からは、その″遠さ″がわからない。
 次元は異なるが、法華経には「雖近而不見(近しと雖も而も見えざらしむ)」(開結五〇六㌻)――仏がそばにいても、凡夫には見えないようにしている――と説く。
 一般的にも、人物が大きければ大きいほど、すぐそばにいても、その偉大さが、なかなか理解できない、とよく言われる。そのことを知っていれば、慢心するどころではない。本当に謙虚になって、向上の道を歩んでいくはずである。
 ゆえに「勝つ」ためには、普通の努力では足りない。一つの道を極めるには、ある意味で、他からは「その道の鬼」と言われるほどの没頭が必要な場合もある。
 真の「幸福者」となる道も同じである。真剣な修行が、精進が、絶対に必要となる。
 どうか皆さん方は、人生に勝っていただきたい。自分に勝っていただきたい。そしてだれよりも「幸福」になっていただきたい。それ以外に私の願いはない(拍手)。その最高にすばらしい人生のための、現在の″青春時代の修行″と確信していただきたい。
 皆さまが、一日一日を希望に燃えて、一日一日を立派に勝利していかれんことを念願し、本日の記念のスピーチとしたい。
 (北海道池田講堂)

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