Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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アメリカSGI青年研修会 青年は教学を、青年は行動を

1990.2.20 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

前後
8  御本尊の功徳には「顕益」と「冥益」がある。
 病気とか、仕事上の困難とか、何か問題があったときに、厳然と守られ、パッと解決できる。それが「顕益」である。
 とともに、あたかも海の水が満ちゆくように、しだいに福運を積み、豊かな大境涯を築いてい
 く。その境涯さえ築きあげれば、いかなる人生の苦しみが起こっても、絶対に崩されることはな
 い。今世だけでなく、永遠に幸福な境涯に遊楽していける。これが「冥益」である。
 たとえば、ゼンマイを十分巻いておけば、いつでもはずみをつけて動く力が蓄えられている。ゆるんでいれば、いざというとき、その力が発揮できない。比喩的にいえば、生命のゼンマイを巻くのが信心の実践であり、何にでも対応できるよう十分に力を蓄えきった状態が、冥益に満ちた人生の姿ともいえよう。
 ともあれ、必ずや所願満足の人生、永遠なる幸福境涯を、自然のうちに会得していけるのが、妙法の功徳なのである。
9  しかし、その功徳も、信心いかんにかかっている。
 大聖人も「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し
 ――どのように法華経を信じていても、謗法があれば必ず地獄に堕ちる。それは、千杯の漆にカニの足を一つ入れて、漆をだめにしてしまうようなものである――。
 どんなに真剣に、まじめに信心しているようであっても、謗法があれば、すべての功徳を消してしまう。それは、わずかの青酸カリでたちまち死んでしまうようなものである。
 御書(1382㌻)には、悪の因をつくるものとして、十四の誹謗が挙げられているが、そのなかに「軽善」「憎善」「嫉善」「恨善」がある。信心している人を「軽んじ」「憎み」「ねたみ」「恨む」ことが、それにあたる。
 懸命に、これほど信心をしているのに、功徳が感じられないという場合があるかもしれない。そのときは、この四つの誹謗がないかどうかを、自分に問うてみていただきたい。軽善、憎善、嫉善、恨善の人は、自分で自分の功徳を消してしまうからである。
 もちろん、同志に対しても、言うべきことをきちんと言っていくことは自由であるし、当然、必要なことである。しかし、相手を思って厳しく言うことと、憎しみの心や恨みの言葉は同じではない。その点はよくよく見きわめていかねばならない。
 御本尊のもとに集い、広宣流布に進んでいる私どもは、すべてが仏子であり、″妙法の家族″である。ゆえに、おたがいに尊敬しあい、信頼しあい、励ましあって、この人生を生きぬいていただきたい。その人にこそ、御本尊の功徳と、諸天の加護は、いや増していくことを確信していただきたいと申し上げ、本日のスピーチとしたい。
 (マリブ研修センター)

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