Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二十四回本部幹部会 永遠に轟く生命の凱歌を

1989.12.20 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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19  「常不軽の精神」で生きぬけ
 大聖人はこう仰せである。
 「過去の不軽菩薩は法華経を弘通し給いしに、比丘・比丘尼等の智慧かしこく二百五十戒を持てる大僧ども集まりて優婆塞・優婆夷をかたらひて不軽菩薩をり打ちせしかども、退転の心なく弘めさせ給いしかば終には仏となり給う
 ――過去の不軽菩薩が法華経を弘通された時、僧や尼で、知恵があり、二百五十戒を持つとする権威ある高位の僧たちが集まり、在家の男女をかたらって不軽菩薩を罵詈し、暴力を加えた。しかし不軽菩薩は退転の心なく法華経を弘められたので、ついには仏となられたのである――。
 不軽に浴びせられた「悪口罵詈」「杖木瓦石」の集中攻撃。大聖人は、その背景に、権威や邪智の者の″連合″による陰湿な策謀があったことを示されている。
 大なり小なり、いつの時代にも、こうした現実は変わらないのかもしれない。
 ともあれ不軽は、断じて退かなかった。負けなかった。″進まざるを退転″――この、前へ前ヘと勇んで進み続けた不軽の姿にこそ、不滅の学会精神がある。
 そして、最後に不軽は、永遠に轟きわたる生命の凱歌をあげた。それは厳然たる″仏法は勝負″の証であった。
 「御義口伝」に、こう明言されている。
 「所詮しょせん今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり」――詮ずるところ、今、日蓮大聖人およびその門下として、南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は、末法の不軽菩薩である――。
 当然、「総別の二義」があることは、言うまでもない。ただ、いずれにしても、私どもが大聖人の御精神に連なり、さまざまな圧迫に負けず、妙法を唱え、猛然と思想戦・言論戦、広宣流布の戦いを進めていく。そこに無上にして永遠の「生命の栄冠」が、自身に輝いていくことは、絶対に間違いない。(拍手)
20  また大聖人は、不軽の姿をとおしながら、教えられている。
 「法華経を持たざる者をさへ若し持ちやせんずらん仏性ありとてか
 ――不軽菩薩は法華経を持っていない者でさえも「もしかしたら持つかもしれない。本来、仏性があるからである」として、このように敬い礼拝された。まして、法華経を現に持っている在家、出家の者を、敬わないでよいことがあろうか――。
 この御文を拝すれば、同信のわれらをさげすみ、下に見るような行為が、どれほど大聖人のお心に反しているかは明白である。
 大聖人の仰せどおり、在家も出家も、ともに尊敬していくことが正しい。そこに法華経の精神もある。
 明年は、いよいよ大石寺の開創七百年。また学会創立六十周年の佳き年を迎える。私は、全世界の友が、一人ももれなく、健康で朗らかに、楽しく、最高にすばらしきお正月をお迎えくださることを、祈りに祈って、スピーチを終わりたい。
 (創価文化会館)

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