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日蓮大聖人・池田大作

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創立六十周年開幕記念支部長会 「新鮮」「明快」「柔軟」な人に

1989.7.27 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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23  その意味で、長い目でみなければ、物事の真じつはわからない。そして、長い目で見れば必ず深い意味がわかってくるものだ。とくに信心の世界はそうである。
 たとえば「二箇相承にかそうじょう」(日蓮大聖人から日興上人への唯授ゆいじゅ一人の付嘱ふぞく状で、「日蓮一期弘法付嘱書」と「身延山付嘱書」の二箇の付嘱書)の正本(御真筆)が武田家の手で紛失した。これは大痛恨事だいつうこんじであった。しかし、これによって、正義を証明するための「教学」が大いに進んだ。
 また五老僧らの師敵対も、末法万年の大きな教訓となっている。あれだけの五人の高弟が反逆した。何が起ころうとも、もう動じはしないという、これもまた信心の大きな防波堤となっている。
 学会においても、軍国主義と戦われた牧口・戸田先生の入獄は、当時、大変なショックであった。人々には、その尊い本質などわからない。″国法″を犯した、ただの犯罪者にしか見えなかったかもしれない。しかし、今では広宣流布への学会の不滅の原点ともなっている。
24  また人生には当然、勝ち負けがある。ときには悲しみ、苦しむ場合もあるかもしれない。
 しかし、仏法は「煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい」「生死即涅槃しょうじそくねはん」である。悩みや苦しみが大きければ大きいほど、信心によって、大きな喜び、幸福へと転じていくことができる。
 また、信心はだれのためのものでもない。すべて自分自身に生き切っていくための信仰であり、行動である。自身の福徳を増し、幸福の道を開いていくための信心なのである。ゆえに、少々のことで一喜一憂したり、心を動かされるのでは信仰者とはいえない。
 ともあれ妙法の世界では、何があったとしても、必ず時とともに「変毒為薬へんどくいやく」していけるのである。それがわからず、一時の姿や、また一時の状態をみて、退転したり、反逆していく人が出たとしたら、これほど愚かなことはない。
 「薬」と「毒」の関係をいえば、じつは両者の間には、ある意味で、明確な境界線はない。その配合や、服用する人の生命力との関係で、「毒」として働く場合もあれば、「薬」として働く場合もある。この事実を一言で「薬とは生命を救う毒」と表現した学者もいる。
 人生の勝敗においても、また同じである。最後に勝てば、一切が「薬」になったことになる。逆に、最後に負ければ、それまでいかに「薬」として働いていたものでも、結局は一切が「毒」となってしまったということができよう。
 では、最後の勝利とは何か。それは「信心の勝利」である。これこそ「人間としての勝利」であり、「三世永遠の勝利」につながる。
 いな、学会において「信心の勝敗」以外に、本質的な勝敗はない。他のあらゆる勝敗は、すべて「化城けじょう」であり、「方便ほうべん」なのである。
 結論していえば、誠実で、一生懸命に、広布の組織活動をしている人こそ、真の「勝利者」である。信心の活動をしない人は、本物の信仰者ではないし、諸天の絶大なる加護はない。人生の勝利者とはなれない。こう申し上げて、皆さまのこれまでのご苦労に対する感謝と敬意を表してのスピーチとしたい。

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