Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「創価学会の日」記念勤行会 われらは皆「仏子」、皆「長者」

1989.5.3 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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13  また、法華経の開経である無量義経に、次のように述べられている。
 「一切衆生の良福田ろうふくでんなり。広く一切のため大良導師だいろうどうしれり。一切衆生の大依止処だいえししょなり。一切衆生の大施主なり。つねに法利をって広く一切にほどこせ」(開結一一八㌻)と。
 この経文では、大荘厳菩薩だいしょうごんぼさつらが、釈尊に、仏の滅後、この経を流布すると誓う。これに対して釈尊が″よきかな、よきかな、諸の善男子よ、なんじら、今、真にこれ仏子なり″と述べ、その姿を、このようにたたえられたのである。
 つまり、一切衆生にとって福徳を生じる田のような存在である。また一切衆生の偉大なる指導者である。人々の大依止処、最大の依処よりどころとなる人である。そして一切衆生の大施主であり、つねに法利(法の利益)を、広く万人に施していきなさい、といわれているわけである。
 妙法を信受し、人々の幸福のために、また世界の平和と安穏のために、日夜、広布に邁進まいしんしている学会員こそ、まさに、経文通りの姿を、事実の上で示している存在であると、私は強く訴えたい。また深く確信していきたい。
 ともあれ、我が創価学会は、この経文のごとく「大依止処」、最大の″よりどころ″との自覚で進んでいきたい。学会が盤石であり、厳然としていることが、いかに大事であるか。学会が厳然とし、発展すれば、総本山の外護の任も果たすことができる。また社会への素晴らしき貢献もできる。その意味で、学会の発展が一切を決していくことを自覚していただきたい。
14  真実の同志の″魂″と″魂″の絆
 その学会をになっておられる皆さま方は一人も残らず、仏子の中の仏子であり、長者の中の長者である。どうか、王者の気概をもって、我が人生と法戦に邁進していただきたい。
 戸田先生は、出獄からちょうど一年を迎えようとされるころ(昭和二十一年七月)、次のようにつづられている。(『戸田城聖全集』 第一巻)
 「(=われわれは)大聖人より、如来より、霊鷲山の浄光の都から、この娑婆世界へ、五濁悪世に、よろこんで使いたることを願い、凡夫の身をちょうだいして出世してまいりました。われらこそは、如来につかわされた尊い身分であると確信すべきであります。自分をいやしんではなりませぬ。『仏の使い』であります。如来につかわされた身であります。(中略)凡夫のすがたこそしておれ、われら学会員の身分こそ、最尊、最高ではありませんか」
 「しかし、この確信に立ちましたときに、私どもは『如来の』を行わなくてはなりませぬ。それはなんでしょうか。仏が日夜ご苦慮あそばされていることは、釈尊により、大聖人によって実証されておりますように、一切大衆を安慰あんいにする。すなわち、幸福にする。生存に確信を持たせる。時間・空間にさわりなき自由の生命を顕現けんげんせしめる。しかして、浄化された生命に、いっさいの罪障ざいしょう滅尽めつじんせしめようとするにあります。
 そして「一切衆生を救うということは、やさしくいいますならば『物心両面の楽土』に住まわせること、物心ともに何不足なき常寂光土を、この娑婆世界に建設することが、仏の日夜の願いであり、なやみであります。しかれば、われわれは、仏と同じ心を持ってこそ、尊き如来の使いとしての誇りがあるのであります」と。
 大きな理想の実現には、それだけ大きな抵抗がある。人類の願望である「物心両面の楽土」を建設せんとする広宣流布の戦いに、さまざまな迫害や苦難がきそうことも当然である。しかし、恩師戸田先生は、法戦に厳然と立たれた。
 戸田先生の会長就任の日でもある「五月三日」、私どもは、広布への「自覚」と「確信」を、さらに深く、強くしながら、我が使命の舞いを、晴れ晴れと舞っていきたい。
 最後に、美しくもうるわしき、我が真実の同志の心と心、我が真実の同志の魂と魂は三世永遠なり、最も美しき心なり、と申し上げ、さらに明年の五月三日、ともどもに元気いっぱいに集い合うことを誓って、私のスピーチを終わらせていただく。

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