Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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記念関西支部長会 偉大なる「精神」が「精神」を触発

1989.2.2 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

前後
17  弘安六年(一二八三年)、大聖人御入滅の翌年のことである。大聖人の第百日忌法要を終えると、日目上人は、師・日興上人に、自ら奥州へ弘教に出ることを願い出た。時に、日目上人は二十四歳――。
 ご存じのように、大聖人の御入滅後、各方面の責任者である五老僧は、いずれも大聖人の御遺命ごゆいめいそむき、段々と勝手な振る舞いを始める。彼らは、正しき「師弟相対」という根本の軌道を踏み外し、エゴと保身と野心のままに迷走していった。
 仏子が、言い尽くせぬ苦労を重ねて築き上げた″法城″が、外ではなく、まさに内部から崩されようとしていた。
 そうした渦中、日目上人は、すべての逆境をはじき返すような大情熱を、胸にふつふつと燃えたぎらせておられたにちがいない。
 奥州は、兄・新田次郎頼綱らが住むゆかりの地であり、一族も数多くいた。が、妙法の勢力はいまだないに等しく、他宗が深く根を下ろしていた。そこへ、あえて日目上人は旅立たれた。師弟の道に徹する青年僧の、炎のごとき気概が拝されてならない。
 当時は、奥州までの道のりは約三週間。むろん、徒歩である。今なら、電車に乗って、のんびり本でも読んだり、景色をながめながら旅ができるが、昔はそうはいかない。
 険難を越え、大河を越えての、まさに苦行くぎょうの旅である。それをいとわず、日目上人は、幾度となく奥州に足を運ばれ、弘教の波を起こされていった。
 日目上人によって妙法に目覚めた奥州の門下に対して、日興上人は、大石寺開創以降、毎年のように御本尊を授与され、それは現在でも約三十ぷく以上が残っているといわれる。妙法の種子は、深く、確かに、みちのくの大地に植えられていた。
18  「常勝・関西」の歴史を限りなく
 広布はつねに、だれに頼まれるのでもない。自発の一念によって開かれる。
 私も青年時代、戸田先生に「関西が大事です。交通費なども全部自分で工面しますので、ぜひ行かせてください」とお願いし、何回もこの地に来させていただいたことを、懐かしく思い出す。
 ともあれ、いかなることがあっても、委縮いしゅくしてはならない。つねに獅子のごとく、赫々かっかくたる生命で前進していく――ここに、広宣の魂があり、信仰の精髄がある。
 私どもは、どのような策や誹謗があったとしても、我が信仰の大道を、大胆だいたんに、また堂々と進んでいけばよいのである。清き信心の世界を、悪意に蹂躙じゅうりんさせては絶対にならない。
 皆さまは、末法万年の広布の揺るがぬ土台を作り、人類待望の新しい理想の舞台を開こうとされている。それは、あまりにも尊く、素晴らしき使命であり、人生である。この道を歩み抜くならば、限りなく、我が生命の境涯を広げ、福徳を薫らせていけることは間違いない。
 この一点を深く確信し、みずみずしい歓喜をたたえながら、「常勝・関西」の歴史をさらにつづりゆけと申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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