Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十三回本部幹部会 決然の「一人」から革命の波

1989.1.21 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

前後
17  やがて楽園に着いたサタンは、そこで幸福に満ちたアダムとイブを見る。
 サタンは、彼らを堕落させようとする。それは天国を追放されたサタンの復讐ふくしゅうであった。全能者と称されるものが、六日六晩もかかってつくったという楽園であり、アダムとイブである。それらを一日で破滅させれば地獄の仲間たちに、自分の偉大さを示すことができると考えた。
 楽園の様子をさぐっていたサタンは、そこに「知識の」があり、アダムとイブが、その樹の実を食べれば死という罰が科せられることを知る。そこで彼らを誘惑して、その禁を犯させ、自分の目的を達しようともくろんだ。
 まず初めにサタンは、カエルにけてイブに近づき、誘惑しようとするが、警固の天使に見つけられ失敗、逃げ去る。
 ふたたび楽園に戻ったサタンは、今度はヘビの体内に入り込む。「悪鬼入其身あっきにゅうごしん(悪鬼がその身に入る)」ならぬ、悪鬼入蛇身である。そして一人花園で働いているイブに近づき、ほめ言葉で巧みに誘惑する。
 思わず心を許したイブはサタンがヘビに化けているとも知らず、ヘビが人の言葉を話し、すぐれた理解力をもっていることに驚き、その理由をたずねる。ある一本の樹の実を食べたからだというヘビに案内されてみると、それは、あの禁断の「知識の樹」であった。
 その樹を前に言葉巧みに悪知恵をろうしてのサタンの誘惑に、ついにイブは負け、「禁断の実」を食べてしまう。それを知ったアダムはがく然とするが、イブに対する愛情のゆえに、彼女と運命を共にすることを覚悟し、自らもその果実を食べる。
 サタンは、悪魔特有のやり方でイブをたぶらかした。正面からやってくるのではなく、忍び足でやってくる影のように、またいつの間にか立ち込める霧のように、イブの心に、イブの心のすきに、巧みに入り込んだのであった。
 こうしたサタンの誘惑を見るとき、大聖人の御書の次の一節を思い起こす。
 「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」――月々日々に、信心を強めていきなさい。少しでもたゆむ心があれば、魔がそのスキに乗じて訪れてくるであろう――と。
 魔は、じつに巧みに、心の一瞬のスキをついて入り込んでくるものだ。それに気がつけば魔の働きを破ることができる。しかし、知らないうちに「悪鬼入其身」ともなれば、いいように利用されて、我が身を破壊されてしまう。ゆえに大聖人は、魔が入り込めないように、日々、信心を強めていきなさいと仰せなのである。
 「信心」こそ、幸福の人生の原動力であり、幸福の楽園の堅固な防波堤なのである。
18  内なる永遠の楽園を求めて
 さて、アダムとイブの誘惑に成功し、意気揚々いきようようと地獄に帰還したサタン。仲間たちから喝采かっさいを受けるはずであったが、逆に叱声しっせいをあびせられる。それは、楽園の定めによってサタン自身はもとより、その仲間たち全員がヘビの姿に変えられてしまったからだ。
 一方、罪を犯したアダムとイブは「楽園」を追放される。
 しかし、ここで作者ミルトンは、「楽園」を去りゆくアダムに、こう語らせている。
 「真理のためには苦難にえることこそ最高の勝利にいたる勇気そのものであり、信仰をもっている者にとっては、死も永遠の生命にいたる門にすぎない、ということをしっかり学んでゆきたいと思います」(前掲書)と。
 そしてアダムとイブは「自分の内なる楽園を、はるかに幸多き楽園を」(前掲書)求めて、旅立っていくのである。
 ここには、苦難をつき抜けて、自身の信念のままに生きたミルトンの宗教観、人生観が投影されているように思う。そして、「人間とは何か」「神とは何か」「善とは何か」「悪とは何か」というミルトンの深い洞察と思索のあとを感ぜずにはおられない。
19  ともあれ、苦難に耐えてこそ最高の勝利者となることができる。苦難を避けて逃げた人は、傷つかないかもしれない。しかし、それは既に敗北者である。
 ましてや妙法を持った私どもである。そういう勇気のない、卑怯ひきょうな人間には絶対になってはならない。たとえ法戦ゆえに、苦難にさいなまれることがあっても、勇気をもって信心を貫き、広布に生き抜くところに、必ず永遠の生命の門は開かれ、最極の幸の宮殿に入っていくことができるのである。
 「内なる楽園」、つまり自身の胸中に開かれた「絶対的幸福」という崩れざる「楽園」――これこそミルトンの描くアダムとイブが求めてやまなかった究極の世界であると、私は申し上げたい。
 しかし、それは「妙法」という絶対の大法を根本とせずしては建設することのできないものである。
 大聖人は「最蓮房御返事」に次のように仰せである。
 「我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し申す計り無し
 ――我(日蓮大聖人)等の弟子檀那となる人は、一歩と歩まないうちに天竺(インド)の霊鷲山りょうじゅせんを見、本有の寂光土へ昼夜のうちに往復されていることは言いようがないほどうれしいことである――と。
 「天竺の霊山を見」とは、仏界の境地にいることである。また「本有の寂光土へ昼夜に往復し」とはつねに仏国土に住していることを意味している。
 つまり、妙法を受持していることが即、仏界という、永遠なる″最極の宮殿″にいるのであり、″一歩も行かずして″自身の胸中に崩れざる″幸の宮殿″をつくっているのである。
 ある日本の著名な人が、秋谷会長に「創価学会はどんな嵐があっても、希望を失わず明るく前進している。驚くべきことである」と、語っていたという。
 つねに、学会は、この言葉通りであった。学会には、私どもの世界には「不幸」の二字はない。「敗北」の二字はない。「悲観」の二字もなければ「屈服」の二字もない。あるのは、「明朗」と「正義」と「勝利」と「栄光」である。
 ともあれ、重要な、意義ある本年である。秋谷会長を中心に、連続勝利の見事なる一年を飾っていかれんことを希望し、私のスピーチとしたい。

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