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日蓮大聖人・池田大作

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第11回全国青年部幹部会 「希望」は「勇気」とともに輝く

1989.1.6 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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14  獅子王の人生を使命の大地で
 日淳にちじゅん上人は、かつて次のような趣旨の講演をしてくださった。
 ──霊山会りょうぜんえに集った地涌の勇者たちを、戸田先生が末法に先達せんだつとなって呼び出したのが創価学会である──と。
 まことに感銘深いお言葉である。確かに仏法、法華経はお伽噺とぎばなしではない。今ある現実に即してみるならば、日淳上人の仰せのごとくになるのであろうか。ともあれ、このご指導には、甚深じんじんの意義があった。
 このお言葉の通り、広宣流布という最も崇高な大願に生きゆく人生を、現代の私たちに教えてくださったのは、戸田先生である。学会の強さも深さも、この人生の師弟の「きずな」があるからである。誰人がなんと言おうと、この峻厳しゅんげんなる道だけは、永遠にくずしてはならない。
 この「絆」があったがゆえに、私たちは正しき信仰を知ることができた。また、地涌の勇者としての使命を自覚することができた。
 少し妨害があると、それを忘れて、自分は上手に生きようとか、いい子になろうとして、結局は足をすくわれて、はかない波におぼれて、自分を破壊していくような愚かなことだけは、絶対にあってはならない。このことを諸君に強く申し上げておきたい。
15  遠く佐渡の地の千日尼にあてられた御手紙のなかで、大聖人は次のように仰せになっている。
 「法華経を供養する人は十方の仏菩薩を供養する功徳と同じきなり、十方の諸仏は妙の一字より生じ給へる故なり
 ──法華経を供養する人の功徳は、十方の仏、菩薩を供養する功徳と同じである。十方の諸仏は妙の一字から生まれたからである──。
 「法華経」とは、いうまでもなく末法今時においては、三大秘法の御本尊である。この御本尊こそ、三世十方の諸仏の根本・眼目であり、宇宙を貫く根源の法の当体なのである。
 ゆえに、御本尊に勤行・唱題し、広布の活動に邁進していくならば、まさに無量の福徳が輝き、かおっていく。私どもの日々の実践の舞台は、決して大きいものではないかもしれない。だが、信行学の真摯しんしな実践の功徳は、全宇宙へと通じ、三世に崩れぬ絶大な福徳となっていくことは間違いない。
 さらに大聖人は、こう仰せである。
 「たとえば一の師子に百子あり・彼の百子・諸の禽獣に犯さるるに・一の師子王吼れば百子力を得て諸の禽獣皆頭七分に
 ──たとえば、一匹の師子に百匹の子がいる。その百匹の子が諸々の禽獣(鳥やけもの)に犯されようとするとき、一匹の師子王がえれば、百匹の子は力を得て、諸々の禽獣はみな、頭が七分にわれるのである──。
 「法華経は師子王の如し一切の獣の頂きとす、法華経の師子王を持つ女人は一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐るる事なし
 ──法華経は師子王のようなものであり、一切の獣の頂点である。法華経の師子王を持つ女人は一切の地獄、餓鬼、畜生等の百獣に恐れることはないのである──と。
 妙法こそ、諸経のなかの比類なき「師子王」である。「師子王」である妙法を持つ私どもは、次から次へとおそいかかってくる、現実の荒れ狂った「百獣」の姿にも、一つも恐れる必要はないし、いささかも動ずることもないのである。
 さらにいえば、真摯な広布の実践に励む私どもの真剣な叫びこそ、まさに百獣を従える王者の師子吼ししくに通ずるものであろう。その威風は、いかなる邪悪の風をも吹き払い、世界に、社会に、正義と真実の清風を吹き込まずにはおかない。師子王のごとく仏法の正義を堂々と叫び、訴えきっていくところに、広布の大道はいやまして開けゆくことを知らねばならない。
 最後に、重ねて、この一年を、「正しい信心」「正しい生活」「正しい人生」で、十年にも匹敵するような価値ある年としていただきたい。そして、朗らかに、また勇気をもって、「行学」の前進を期しゆく確かな成長の一年であっていただきたいと念願し、本日のスピーチとさせていただく。

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