Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第12回本部幹部会 若々しい精神、若々しい生命で

1988.12.17 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

前後
20  幕末、明治、大正期といえば、ほぼ完全な男性優位の社会であった。そのなかで、男性として活躍した浅子のような女性は、まことにまれな存在といってよい。おのずと、現在では考えられないような多くの困難な問題にも突き当たったが、そのなかで彼女は″女性の自立″について、確固とした信念を形成していった。
 浅子が、炭鉱経営に乗り出したころである。炭坑夫たちのもとに単身、乗り込み、自ら現場での仕事の指揮に当たった。女性への偏見も強い、当時の荒くれ男らと働くことには、当然、危険もあった。彼女はつねに、ふところにピストルを忍ばせていた。
 同じころ、東京の鹿鳴館ろくめいかんでは、毎夜、ダンスパーティーが開かれ、華やかに着飾った女性たちが舞踏に明け暮れていた。それを伝え聞いた浅子は、強く違和感をいだく。
 「生活はすべて男性に頼り、贅沢ぜいたくな衣装や宝石で身を飾り、深夜まで踊り狂う。それが新しい女性の生き方なのだろうか。勉学をし、しっかりと働き、世の趨勢すうせいを見極めていく。それが真の女性の自立というものではないだろうか」
 こうした信念からであろう、後年、浅子は、日本で初の女子高等教育機関である「日本女子大学校」(日本女子大学の前身)の創立に尽力・奔走する。さらに、晩年まで、女性の地位・意識の向上のために手づくりの女子教育に取り組み、若き乙女らに″女性の自立″への思いを語っていった。故・市川房枝さんも、彼女の直接の薫陶を受け、決定的な影響を受けた一人である。
 浅子は、七十一歳で亡くなる。死が迫ったある日、彼女は、こう語っている。
 「うちは、どんな困難に出遭おうとも、いつもこれからが本番や思うてやってきました。生涯が青春のような気でいこうと思うています」と。
 浅子は、最後の最後まで、「これからが本番」「生涯が青春」の気概で、向上・努力の生き方を貫いた。どんな事業、功績より、ここに私は、彼女の偉大さをみる思いがする。
21  自分らしく使命に生きよ
 アメリカの詩人・ホイットマンに「自分というものがある。あるがままで十分だ」との、私の好きな言葉がある。
 むろん、次元は異なるが、「無作むさ」について説かれた御義口伝の「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」の御金言にも通ずる、深い意味を有した言葉であるように思う。
 人間にとって、最高の生き方とは何か。それは、あくまで自分らしく、自己の本分に生き抜くことではないか。たとえ、地位や名誉がなくとも、真に自分らしく生きることができれば、そこに確かな幸福と満足があるにちがいない。ゆえに、どこまでも、自己自身に生きゆくことだ。
 私も、これまで精いっぱいに、自分自身に生き切ってきたつもりである。私の本分、目的とは、仏子である皆さま方を守りに守っていく──それ以外にない。ここに、我が心を定め、何があっても変わることなく一貫してきたがゆえに、私には、何の悔いもなければ、恐れもない。
 明年も、これまで以上に、広布のために走り、語り、行動していく決意である。どうか皆さま方も、また一緒に一層のご活躍をお願いしたい。そして、どうかよいお年をお迎えくださいと心より申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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