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日蓮大聖人・池田大作

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第10回全国青年部幹部会 一歩また一歩新しき世紀へ

1988.12.10 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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21  法華経に、随喜功徳品第十八がある。題号の「随喜」とは「随順慶喜ずいじゅんきょうき」の義で、仏法に信順して歓喜することをいう。何度も拝し、私の大好きな一節であるが、この「随喜」について大聖人は「御義口伝」で次のように仰せである。
 「所詮しょせん寿量品の内証に随順ずいじゅんするを随とは云うなり、しかるに自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり所詮しょせん今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時必ず無作三身の仏に成るを喜とは云うなり
 ──結局は、寿量品第十六の内証である三大秘法の南無妙法蓮華経に随順することを「随喜」の「随」というのである。自他ともに智と慈悲があることを「喜」というのである。所は、いま末法において、日蓮大聖人及びその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉るとき、必ず即身成仏して無作三身の仏になることを「喜」というのである──と。
 人生や生活にはさまざまな喜びがあろう。ラーメンを食べて「ああ、おいしい」と思うのも喜びだし、また恋人とのデートがこのうえない喜びの瞬間だと感じる人もいよう。さらに、職場の役職が上がった、立派な家を建てた等々、それなりの喜びがある。
 しかし、こうした喜びがいかにはかなく、長続きのしないものであるかは皆さまもよくご存じの通りである。また財産や地位、名誉などは、突き詰めれば、自分の外面を飾る″衣服″や″装飾品″にすぎない。結論として、信心に励み、仏の境界を得ることこそ、崩れざる真実の喜びである。そしてその仏の境界に立脚してこそ、甚深の「智」がわき、限りない「慈悲」の心を持っていくことができる。そこに人生の「歓喜」がある。
 さらに大聖人は「然る間随とは法に約し喜とは人に約するなり、人とは五百塵点の古仏たる釈尊法とは寿量品の南無妙法蓮華経なり、是に随い喜ぶを随喜とは云うなり惣じて随とは信の異名なり云云、唯信心の事を随と云うなり」と仰せである。──それ故、「随」とは「法」に約し、「喜」とは「人」に約すのである。「人」とは五百塵点劫の当初の古仏である久遠元初の自受用報身じじゅゆうほうしん如来であり、「法」とは寿量文底独一本門どくいちほんもんの南無妙法蓮華経である。これに随い喜ぶのを「随喜」とはいうのである。総じて「随」とは「信」の異名である。ただ信心のことを「随」というのである──と。ここでは随喜を人法の本尊に約され、結論として、信心こそが肝要であることを示されている。つまり御本尊への強盛な「信心」によってのみ、真の「歓喜」と「幸福」の人生を得ることができると仰せなのである。
22  断じて不屈の学会精神で
 最後に、広布の未来の一切を担い立つ青年部諸君に、リーダーの在り方について日ごろ感じていることを少々、申し上げておきたい。その一つは「わが先輩や後輩や同志をほめたたえることのでない人は不幸である」。またその人は「小さな境涯の人である」といえまいか。
 ほめるときには心から人をほめ、励ましが必要な場合は真心をもって友を励ますことができる人であっていただきたい。先ほども申し上げたように、ただいばり偉ぶって周囲の人に窮屈な思いをさせていくのは間違いである。
 御書を拝すれば、大聖人が純真に信心を貫いている門下をどこまでもたたえられ、一人一人を大切にされていることがよく拝察される。
 人々に勇気と希望を与えゆくことができない人は、真の指導者とはいえない。また、真の仏法者とはいえない。自らが率先して人を励まし、そして自らがすべてを乗り越えながら成長している人のもとでこそ、多くの人々が安心し、同じように成長していくものである。
 ただし、「称賛」と「お世辞」は違う。また「励まし」と「おべんちゃら」は違う。この点はよくわきまえていくべきであろう。
 ともあれ、権威や役職の上に乗って、口先だけの言葉で泳いでいこうとする人は″本物″のリーダーではない。また、そういう人は必ずといってよいほど後輩の成長にやきもちを焼く。傲慢ごうまんな心はじつに浅はかであり、自分自身も、後輩をもダメにしてしまう。反対に、本当に偉大な人は、後輩の成長を何よりも喜ぶものである。
 諸君は、こうした心の善悪に対する鋭い批判力をもっていただきたい。そして偽善(ぎぜん)の奥にある傲慢と無知の本質を見破りながら、堂々と信念の道を進みゆく「賢明」と「勇気」を兼備したリーダーであっていただきたい。
23  また、二十一世紀の広宣流布の勝利のために、存分に身体を鍛え、学び抜いていただきたい。私も青年時代は病弱であったが、戸田先生のもとで鍛えに鍛えた。おかげで現在も日々、青年の気概で、法のため、人のために戦い抜くことができるようになった。
 疲れたときは早めに休み、熟睡を心がけることである。夜ふかしによって、翌朝をはつらつとスタートできないのではなんにもならないし、リーダーとして失格である。
 どうか、信心を根本とした正しい生活のリズムにのっとり、社会での勝利を一つ、また一つと積み重ねていっていただきたい。それが素晴らしい人生の勝利の栄冠を飾ることにつながるのである。
 現実社会には、思わぬところに悪事や陰謀いんぼうが隠されているものである。諸君は悪い者にだまされ、権威や権力に屈服して策略さくりゃくのワナにはめられるようであっては決してならない。
 青年は、物事の本質を見破り、「悪」と対決して「善」を守り抜いていく「正義の心」を失ってはならない。リーダーに勇気がなくおろかであっては、後に続く大勢の人々がかわいそうであり、不幸である。またそういう人は結局、だれからも頼られず、″心の敗北者″″人生の敗北者″となっていかざるをえない。
 ともあれ、青年に勝るものはない。また、民衆に勝るものもない。そして、正法と信心に勝るものは絶対にないのである。どうか、いかなる時もこの確信を忘れないでいただきたい。
 これまでも学会は幾多の険難けんなんの尾根を乗り越えてきた。誰もが「敗れた」と思うような嵐にも、私は絶対に負けなかった。信心で勝ち抜いてきた。どうか、青年部の諸君は、″信心の英雄″となって、立ち上がり、走り、また立ち上がり、歩み、そしてまた立ち上がり、前進していただきたい。
 これが大聖人門下の誉れであり、不屈の学会精神がここにあると申し上げ、お一人お一人の偉大なる「勝利」と「前進」と「成長」を心から祈り念じて、私のスピーチを結ばせていただく。

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