Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第三回全国婦人部幹部会 人類希求の黄金郷運動で

1988.9.7 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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14  不惜の信仰に永遠の福徳
 話はかわるが、大聖人は「開目抄」の中で、妙法の不求自得ふぐじとく(求めざるに、おのずから得たり)の大利益について、涅槃ねはん経の″子を守るために命を捨てた母″の説話を引かれて示されている。
 「たとえば貧女の如し居家こけ救護くごの者有ること無く加うるに復病苦飢渇にめられて遊行ゆぎょう乞丐こつがいす、他の客舎に止り一子を寄生す是の客舎の主駈逐くちくして去らしむ
 ──たとえば一人の貧女があり、住むべき家もなく、救護してくれる人もない。そのうえ、病苦と飢渇きかつ(飢えとかわき)にせめられてさまよい乞食をして歩いた。その時、ある宿に泊まり子供を産んだ。ところがその宿の主人はこの貧女を追い出してしまった。
 「其の産して未だ久しからず是の児を擕抱けいほうして他国に至らんと欲し、其の中路に於て悪風雨に遇て寒苦並び至り多く蚊虻蜂螫ぶんもうほうしゃ毒虫のい食う所となる
 ──子供を産んで、いまだ日もたたないのに、赤児を抱いて他国へ行こうと欲したが、その途中で悪風雨にあい、寒さと苦しみに襲われ、多くのあぶはちどくむしなどにい食われるありさまであった。
 「恒河に逕由けいゆし児を抱いて渡る其の水漂疾ひょうしつなれども而も放ち捨てず是に於て母子遂に共倶に没しぬ、是くの如き女人慈念の功徳命終の後梵天に生ず
 ──恒河にさしかかり子供を抱いて渡ろうとした。水の流れは速かったが、母は子供を放ち捨てることなく、ついに母子ともにぼっしておぼれ死んでしまった。このような女人は子供を思う慈悲の心の功徳によって、死んでのち梵天に生じたのである──と。
 川に沈む母と子。しかし、たとえ自分の命はなくなっても最後まで子供を離そうとしなかった母の慈愛の強さ。その慈悲の一念によって、母は、死んでのち梵天に生まれるという大功徳を受けることができたわけである。
 最後まで子供を離さなかった、ということは、たとえ身命に及ぶ大難があったとしても、妙法を捨てない、退転しない。最後まで、信心を貫いた、ということである。また「梵天に生ず」とは、最高の境界、つまり「仏界に生まれる」という大功徳を受けたとの意である。大聖人は、この「母」の姿を通して、信仰者の精髄を教えられているわけである。
15  そして、続けて次の涅槃経の文を引用されている。
 「正法を護らんと欲せば彼の貧女の恒河に在つて子を愛念するが為に身命を捨つるが如くせよ」──正法をまもろうと欲するのであれば、かの貧女が大河の中にあって、我が子を愛念していたがゆえに身命を捨てたように、正法をかたく護持して身命を捨てよ──。「善男子護法の菩薩も亦是くの如くなるべし、寧ろ身命を捨てよ是くの如きの人解脱を求めずと雖も解脱自ら至ること彼の貧女の梵天を求めざれども梵天自ら至るが如し」──善男子よ、護法の菩薩もまたこの通りであるべきである。正法を惜しみまもるためには、むしろ身命を捨てよ。そうすれば、解脱(成仏の境界)を求めなくても、解脱がおのずからくることは、かの貧女が梵天に生まれることを求めたわけではないが、我が子を思う慈愛の一心によって、おのずから梵天に生まれたことと同じである──と。
 皆さま方もご存じの通り、「開目抄」は、大聖人が三類の強敵との大闘争のなか、御流罪の地・極寒の佐渡にあって、したためられた御抄である。
 その御抄で大聖人は、門下に対して、母が強い慈愛の一念で我が子をまもるように、正法をまもり抜きなさい。その不惜身命ふしゃくしんみょう(身命を惜しまずの信心の人こそ、不求自得の大功徳として「成仏」の境界を得ることができると仰せなのである。
 御本尊を受持し、広布に進みゆく皆さまは、「護法の菩薩」ともいうべき方々である。妙法の法戦に苦難の嵐は、御書に照らして必定である。しかし、何があっても、妙法を抱きしめて生き抜いていく強き信心の一念だけは絶対に失ってはならない。それが「成仏」という永遠なる幸福を得ることができるかどうかの分岐点となるからである。
 ともあれ正法を護持し、広宣流布のために出現した学会をまもりながら、日々、信心の前進をされている皆さま方の人生に、妙法の素晴らしい大果報の結実があることは間違いない。それを深く確信していただきたい。
 また、この御文で大聖人は、当時の殿上人てんじょうびとのような社会的地位のある人でなく、武勇にすぐれた大将軍でもなく、平凡な貧しき母の姿を通して、正法をまもり抜く精神と功徳を教えられている。
 信心は社会的地位や名誉、財産で決まるものではない。一個の人間として、一人の信仰者として、どう生き抜くかである。その意味で、大聖人が平凡にして貧しき女人に、尊極そんごくの光をあてられたことに深い意義を感ぜずにはおられない。
16  さて、まことに残念なことであったが、宗門と学会とが、策謀家たちの手によって、一時、不協和音をつくってしまったことがあった。そのときも、私をおとしいれようとしての、さまざまな讒言、非難の嵐があった。
 しかし、そうしたなかで、日達上人は、いつも「あなたの信心は立派です。あなたの信心は正宗の模範です」と、おっしゃってくださっていた。まことにありがたくも、身にあまる御言葉であった。私事で恐縮だが、後世のために、ここに申し上げさせていただく次第である。
 最後に、どうかお一人お一人が「負けない人生を」「朗らかな人生を」生き抜いていただきたい、と申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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