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日蓮大聖人・池田大作

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「8・24」大田、世田谷、杉並区合同支… ″本物の一人″よ出でよ

1988.8.24 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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16  勇者の頭に勝利の「花の冠」
 さて、私が大好きな詩人の一人である、ドイツのシラー(一七五九〜一八〇五)について少々お話ししたい。
 これまで何回か紹介した通り、シラーは、″疾風怒濤″(一七七〇年代のドイツ文学における革新運動)の時代を、青年として炎のごとく走りぬき、″自由の詩人″″闘う詩人″とたたえられた。
 私が青春時代、暗記するほどに読み親しんだシラーの有名な詩に「理想と人生」(小栗孝則訳、『世界名詩集大成[6]』所収、平凡社)がある。一日の活動を終えて、多摩川の土手を歩きながらこの詩を口ずさみ、夜空に輝く星々と語りあったことは、今も鮮烈に胸に刻まれている。
 彼は詠う。
 「依然として人生の中で、苦しいたたかいの天が揺れているかぎり
 そこに勝利があらわれる
 そこには勝利のかぐわしい花の冠が揺れる」
 勝つか負けるか──その抜きさしならない人生の苦闘のさなかにこそ、実は勝利のかぐわしい花の冠が揺れているのだ、とのシラーの言葉は、深い確信に満ちて、勇気と活力を与えずにはおかない。
 さらに彼は続ける。
 「苦闘の中から、君らの五体を解きのぞくためでなく
 戦いぬいた人々の苦しみを慰めるために、におっている」
 ──すなわち、勝利の花のかおりは、苦闘を取り除くためではなく、苦闘と真正面からぶつかり、戦いぬいた人々の苦しみを慰めるためにかおっていくのだ、と。
 障害も何の苦闘もない人生は、ただの木切れや鉄くずのように冷たく味気ないものだ。いずこの世界においても、困難に挑戦し、戦いぬいた人でなければ、現実の勝利の冠と喜びを獲得することはできない。
 いわんや、広宣流布という未聞の大事業においては、あらゆる困難を乗り越える覚悟と勇気がなければならない。それなくして勝利もなく、栄冠の歓喜もなく、人生の前進も、発展もありえない。
 また難との戦いがあってこそ、成仏への直道も、広布の道も、洋々と開かれていくのである。この「難即発展」「難即前進」の厳然たる道理を、深く銘記していきたい。
17  逆風も″追い風″と転ずる信心
 大聖人が、流罪の地、伊豆・伊東でしたためられた御書に「四恩抄」がある。
 このなかで大聖人は「一切衆生の恩」に報ずべき理由として、はじめに、一切衆生がいなければ、すべての人々を生死の苦しみから救おうという菩薩の誓願を起こすことができない、と述べられているが、さらに続けて次のように仰せになっている。
 「又悪人無くして菩薩に留難をなさずばいかでか功徳をば増長せしめ候べき」──また(一切衆生のなかに)正法誹謗の悪人がいなくて菩薩に留難を加えないならば、どうして(法華経修行の)功徳を増していくことができようか──と。
 つまり、法華経を行ずる菩薩にとっては、むしろ正法誹謗の悪人がいるからこそ、仏道修行の功徳を増していくことができると仰せなのである。
 私は、ここに、重要な意義があると思えてならない。
 ここでの「菩薩」とは、当時、伊豆流罪の渦中にあられた、御本仏であられる大聖人御自身のことをさされたものと拝されるが、大聖人の御遺命のまま、広布の実践に励む私どもも、この「菩薩」につらなる者であり、眷属である。
 したがって、私どもの広布の活動にあっては、「難」があるからこそ功徳を増すことができるという、すばらしい法理があることを忘れてはならない。誹謗・中傷されればされるほど、学会は発展の歴史を刻むことができた。これは皆さまもご存じの通りである。私どもの前途に競う難は、「一生成仏」「広宣流布」というすばらしき人生を生きぬくための″追い風″であり、無量の財宝の″糧″なのである。
 ゆえに、私は、何があろうと、正宗の外護と広布のため、最後の最後まで信心で戦っていく。それは、その無量の功徳が、学会の万年への功徳となって広がっていくことを、心から確信しているからである。
 ともあれ、一生は有限である。どうか皆さま方も、その尊い生涯に、すべてを″追い風″と転じながら、朗らかに無上道の人生を限りなく前進していっていただきたいのである。
 敬愛する全国の同志の皆さま方の、ますますのご健勝とご活躍、そしてご長寿を心よりお祈り申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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