Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第4回本部幹部会 「人間」と「生命」を深く探れ

1988.4.22 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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19  信心は「魔」との戦い
 本日、私がとくに申し上げたいことは、「謗法」や広布を妨げる「魔」と戦うことを絶対に忘れてはならないということである。
 「曾谷(そや)殿御返事」には、次のように仰せである。
 「謗法ほうぼうを責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」――謗法を責めないでいて成仏を願うことは、火の中に水を求め、水の中に火を尋ねるようなものである。はかないことである、はかないことである――。
 謗法との戦いなくして、成仏はありえないとの厳然たる御聖訓である。
 また、「秋元御書」には「常に仏禁しめて言く何なる持戒・智慧高く御坐して一切経並に法華経を進退せる人なりとも法華経の敵を見て責め罵り国主にも申さず人を恐れて黙止もだするならば必ず無間大城に堕つべし」――常に仏は戒めて言われている。どんなに戒律を持ち、智が高くて一切経と法華経を自在に解する人であっても、法華経の敵を見ておきながら、責め、ののしり、国主にも言わず、人を恐れて黙っているならば、必ず無間大城に堕ちるであろう――と仰せである。
 社会的にいかに立派に見える人であっても、また自分は著名人である、地位や学歴がある、教学力がある等といっても、謗法と戦う心がなければ成仏はない。
 正法を信奉する学会にあって、「破和合僧」の工作をしたり、自分の地位を守るために組織を利用し、広宣流布と私どもの信心を妨げようとする人間に対しては、厳として戒め、厳として祈り、戦っていかねばならない。遠慮したり、怖がったり、恐れたりしては絶対にならない。かりに、今まで先輩であったとしても、「謗法」はどこまでも「謗法」である。
 大聖人は「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」――月々日々に、信心を強めていきなさい。少しでもたゆむ心があれば魔がそれを縁にして、襲ってくるであろう――と仰せである。
 「信心」は、「魔」との戦いである。信心が弱まれば必ず「魔」は勢いを増す。ひいては信心を破られてしまう。外からおそいくる魔と戦うことは、そのまま自身の内なる魔との戦いなのである。それなくして広布の前進も自身の一生成仏もない。
 「魔」との戦いを失った信心は、結局、観念論に陥ってしまうし、御聖訓通りの仏道修行とはいえない。
 妙法の世界にあって、誉れの人、偉大な人とは誰か。それは信心強き人である。勇猛の心で魔と戦う人である。成仏は立場や格好で決まるものではない。信心が強いか弱いか、広宣流布への一念が深いか浅いかで決まる。ここに仏法の厳しき因果律がある。
20  私は、これまであらゆる障魔と真っ向から戦ってきた。一歩もひかなかった。それが大聖人の教義であるし、戸田第二代会長の信心と行動でもあった。
 ともあれ「魔」を恐れずに、厳然と戦ってきたがゆえに、今日の大発展と大功徳がある。これからは、幹部や青年部は、私がいるからという安易な考えであっては断じてならない。隆々たる発展を遂げる大仏法の前進の中で、いつしか、「謗法」や「魔」と、どこまでも戦い抜く精神が薄らいでいくようなことがあっては絶対にならないと申し上げたい。
 ともかく、信心は「憶病」であってはならない。また、他人まかせであってはならない。幹部でありながら、「障魔」と戦っていくことを避け、周囲の評価を気にして要領よく生きていこうとするのであれば、もはや信心とはいえない。
 皆が団結し、強盛な祈りに立てば、少しぐらい幹部や先輩が退転しても、そんな低次元のことは何も恐れる必要もない。朗らかに堂々と戦っていけば、御聖訓に照らし、勝敗の結果は全部明白となるからである。
 指導者である皆さま方は、いかなることがあっても、自らの「祈り」と「責任」において、真正面から取り組み、勝利への道を切り開いていく、師子王のごとき信心でなければならないと強く申し上げておきたい。
 最後に、明年の「5・3」もまた、光り輝く広布の天地、百花咲き薫る人生の桧舞台で迎えゆくことを共々に祈り、誓い合って、私のスピーチとさせていただく。

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