Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第1回和歌山県記念総会 「常楽我浄」と人生飾れ

1988.3.24 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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20  信心の重要な目的もまた、素晴らしき「死」を準備することにある。
 「大法」をまもる護法の功徳は無量無辺である。またその大法を世界に弘通している学会を支え、守ることは、大法を護ることに通じる。ゆえに功徳も大きい。
 まじめに、謙虚に、生涯、広布に生きぬいた人の死は、見事なまでに荘厳である。安らかであり苦痛もない。その事実は、皆さまも、よくご存じの通りである。そして、苦しみきって「死」を迎える人が余りにも多い現実を知っている人から見れば、まことに感嘆すべき妙法の偉大な実証なのである。
 私事になるが、我が池田家の一族についても、父も母も、また兄も次男も、みな本当に安らかな死を迎えている。だれ一人、苦しんだ者がいない。私は、この厳たる事実を、懸命な護法の実践による″与同利益よどうりやく″であると確信し、感謝している。
21  「妙法尼御前御返事」には「日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」。
 ──日蓮は幼少の時から仏法を学んできましたが、念願したことは「人の寿命は無常である。出る息は入る息を待つことがない。風の前の露というのはなお譬えとして足らない。賢い者も愚かな者も、老いた者も若い者も、いつどうなるか分からないのが世の常である。それゆえ、まず臨終のことを習って後に他のことを習おう」ということであった──と。
 また、日寛上人の「臨終用心抄」にも、「臨終の一念は多年の行功ぎょうこうに依ると申して、不断ふだん意懸こころがけに依るなり」としるされている。
 つまり、臨終のさいの一念は、生きてきた生涯の行為の結果として決まるのであり、信心の常日ごろの不断の心掛けによるといわれている。
 「臨終」こそは、まさに人生の集約点である。生きてきた人生のすべての総決算の時でもある。
 皆さま方は、広布のため、法のため、人々のために、日々、懸命に活躍されている。ゆえに一生成仏の軌道に入っていることは絶対に間違いないと確信していただきたい。
 どうか、お互いに福徳に満ちた健康にして長寿の人生を送りたい。そして、素晴らしく楽しく、素晴らしく有意義な、素晴らしく価値ある広宣流布のために、この一生を送っていただきたいと念願し、本日のスピーチとさせていただく。

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