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日蓮大聖人・池田大作

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第1回多摩川圏記念総会 人生の凱歌を信心で飾れ

1988.2.28 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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13  「そもそも深大寺の用水は、当時の深大寺村ほか八カ村、後の神代村一帯を潤すために引かれたでん用水、いわゆる農業用水である。
 ではなぜ、この用水が明治になって必要になったのだろうか? それは、安政(あんせい)二年(一八五五年)十月二日のいわゆる安政の地震が直接の原因になった。それまでは、深大寺村字野ケ谷のがやには、いつも水が絶えることのない「釜」と呼ばれる池沼があって、この大量のわき水が野ケ谷から、金子、大町、覚東がくとうまでの水田を養っていた。それが一夜にして釜の口をふさいでしまい、水稲は全滅した。翌年も、翌々年も、釜の口はついに開かなかった。何とかしなければ……、水をどこからでもいい、引っぱってこなければ……。時に明治三年(一八七〇年)十二月、時の深大寺村名主、富沢松之助、当年二十六歳は村人一同を集めて協議の末、隣村野崎村まで来ていた砂川用水の余水をとることに一決した。松之助は直ちに品川県に出願、翌四年(一八七一年)五月には、民部省土木局らの踏査を経て許可が出た。
 工事は即刻、開始された。彼、富沢松之助の自筆メモによれば、砂川村樋尻といじりから梶野新田まで十四キロ弱は、わずか二日間で掘り増し、掘りざらえを終わり、梶野新田より野崎村までの約五・五キロは、幅一・二メートル、深さ一メートル強に、七日間で掘り割りし、深大寺組合内は人海作戦をとり、トンネル、築土手、川敷埋立など、約十日間であらましの工事を完成した。実に、着工以来、わずか二十日間というフルスピードぶりであった。
 しかし、その間の企画中心人物たちの精神的、物質的苦悩は大変なものであった。「来るか来るかと松之助、水が来ないで頭角右衛門」。これは、深大寺村名主、富沢松之助と、柴崎村名主、佐保田角右衛門とのイライラを歌い茶化ちゃかしたものである。物質的にも、松之助は田畑六反歩、屋敷内の杉の大木などが金にかえられ、かつては、小判の土用しをしたといわれるほどの豪農の蓄財も、いつか消え去っていた。松之助の、「生命いのちが終わるか、身上(財産)が終わるか」という口ぐせは、この間の事情を物語って余りある──。
14  深大寺用水を手がけた名主・富沢松之助のように、人々のために一生懸命尽くそうとすれば、必ずといってよいほど嘲笑ちょうしょうし、軽蔑する人間が出てくる。ある意味で世の中は冷たいものだし、人の心はこわいものだ。
 学会も、これまで、どれほど嘲笑と迫害の嵐にあってきたことか。しかし、それらの烈風を前進への追い風として、今日の未曽有の発展をなしとげてきた。この事実こそ、私どもの信心、広布の実践が正しかったことの確かなる証左である。そして、我々を軽蔑し、非難して、退転していった卑劣なやからは、仏法の厳しき因果を証明するごとく、あわれな人生の末路となっていることも事実である。
 ともかく、松之助は、さまざまな苦難を乗り越えて、用水事業を完遂する。人々は最大の感謝をもって功績をたたえ、その名を後世に残した。
 広宣流布という未聞の大事業にあっても、皆さま方の日々の労苦はまことに地道であるかもしれない。また歴史の表面には出ないかもしれない。しかし、これ以上の未来への貢献の道はないし、三世永遠の旅路の中で、必ずや自分自身を飾り、凱歌と満足の人生となっていけるにちがいない。
 その妙法の厳然たる因果律を深く確信し、一段と清らかな信心を貫いていただきたいと申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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