Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 日伯友好の先駆の道  

「太陽と大地開拓の曲」児玉良一(池田大作全集第61巻)

前後
5  児玉 それでブラジルの話がよく私のところでも出てきましてね。私のほうは、家の前に住んでいた山田さんがブラジルに行くことになったという話を父から聞きました。山田さん一家は旅費や衣類の支度を始めていた。で、このお宅には十二歳の男の子がいて、「児玉君、ぼくはブラジルに行くからね」と、あんまりブラジル、ブラジルと繰り返すものだから、それを聞いているうちに私も行きたくなった。(笑い)
 さっそく父に「ハワイに行けなくなったから、今度はブラジルに行かせてちょうだい。山田くんは十二歳でブラジルに行くじゃないか。ぼくは十三歳なんだから行かせてくれてもいいじゃないか」と(笑い)。それで父の言うことをぜんぜん、きかなくなった。(笑い)
 父としては行かせたくなかったんでしょうね。でも結局根負けして、しぶしぶ山田さんに後見人をお願いして、行かせてくれることになったんです。
 池田 なるほど。見事にお父さんの説得に成功したわけですね(笑い)。しかし、少年の一途な夢を大切にしてくれたお父さんも偉かった。
 児玉さんご自身は、そのころ、海外移住ということについては、どのようなイメージをお持ちでしたか。
 児玉 そうですね。北米に行った人は、みんな二、三年したらお金を稼いで帰ってきてましたから、とくに地元の若い人の間では有名になってましたよね。
 池田 ある資料によれば、ハワイ移住の人々は、最盛期には日本の月収の十倍以上の収入を得たともいいますから、たいへんなものだったんでしょうね。
 児玉 でも、ブラジルについては、私はほとんど何も知りませんでした。学校の授業で国の名前くらいは聞いたことがありましたが、日本とどれぐらい離れているかとか、そんなことはぜんぜん、わかりませんでした。
 池田 すると、ブラジルについての予備知識はなかったわけですが、何が児玉さんをそこまで駆り立てていったんでしょうか。
 児玉 私は昔から、見知らぬ土地に行くことがたいへんに好きでした。ブラジルに行くのも、正直言って、生まれ故郷から出て知らないところへ行くのがうれしかったんですよ。(笑い)
 先ほどお話ししたように、幼い時から家では酢を作っていました。ある時、父から「この酢をどこそこの家へ届けてこい」と言われて隣の村に出たんです。初めて自分の土地から出て、行った先のいろいろな景色に目を奪われました。変わった形の山があったり、大きな木が立っていたり――。それ以来、よその風景を見るのが大好きになった。一人で酢を配りながら、あちこちの土地のいろんな眺めを印象深く見入って歩くようになったんです。おそらく、私がブラジルに行きたいと思ったのも、こういう性格からきたのだと思います。
 池田 初めて見るほかの土地の風景がたいへんに興味をそそった、と。
 児玉 ええ、外国に行くことも、怖いとかまったく思いませんでした。
 池田 なるほど。そういえば、ブラジルでは「子どもの笑顔は未来への道を開く」とか「子どもの純粋さは世界の力である」と言うそうですね。
 子どもの考えや夢に耳をかたむけてみると、きらきら光る“宝物”のような、すばらしい発想に、かえって大人のほうが驚き、感動を覚える場合があります。子どもだからといって軽くみるような態度は、とくに禁物ですね。
 私も大学や学園を創立した一人として、子どもを一個の対等の「人格」として尊重し、その自主性・可能性を信じ、伸ばしていくことをつねに心がけてきました。
 その後、ブラジル移住については、どのように話が進みましたか。
 児玉 移民会社というのがありまして、「ブラジルに行こうよ」とずいぶん、宣伝していたんです。以前に私らの家にも通知がありましたので、参加したいという連絡をしたところ、さっそく先方が、わが家に見えました。
 池田 いわゆる「皇国殖民会社」ですね。
 児玉 そうです。当時は“農業労働に従事する三人ないしは十人から成る家族単位で参加する”というのが条件で、私は隣村の池町弥市さんという方と「構成家族」を組んだんです。
 つまり、ブラジルへ行くときだけ、池町さんの弟としてのあつかいで……。移民会社からは、ああせいこうせい、と。(笑い)
 池田 かなり多くの移住者の方が、人数の条件をパスするために、この構成家族を組んだそうですね。でも、旅費はどうされたのですか。
 児玉 私の旅費は父が山田さんにお願いして借りました。ほかの人たちも、土地を売ったり高利貸しに借金したりして、相当、無理をして用意したようでした。
6  なにしろ、船賃や途中の宿賃、手数料など、当時のお金で百五十円くらいしましたから、たいへんな額です。サンパウロ州政府からも船賃として多少の補助金はもらったのですが。
 池田 たしか当時は、小学校の先生の初任給が十数円という時代でしたね。旅費の工面も容易ではなかったことでしょう。お父さんも、やはり寂しいお気持ちだったでしょうね。
 児玉 そうですね。ただ、二、三年経ったら私が帰ってくると考えていたようでしたから、それほどでもなかったかもしれません。もっとも私は、二年や三年で帰ってこようなどとは思ってもいませんでしたが……。(笑い)
 池田 では最初から永住する決心だった。
 児玉 そう。それだけ深く決めてましたからね。帰るという考えは毛頭ありませんでしたね。私は変わったところに行くことが楽しみだったんです。そして、早く自分で働いて稼ぎたいという思いだけだった。
 池田 日本を旅立つ時、ご両親は。
 児玉 父は広島まで見送ってくれました。別れる時、無言でした。同級生たちも一緒に来てくれました。
 母と姉は、広島に向けて出る川船の乗船場まで来てくれました。母はたいへん悲しがってましてね。姉も黙っていたけれど心配そうな様子でした。けれども、私はただただうれしくて、胸をわくわくさせていました。
 池田 ご両親の胸中は言葉には表せないものだったでしょう。かわいい息子を外国に旅立たせる辛さ、心細さは、いかばかりだったかと思います。
 しかし、お父さんは、一個の人格として、児玉さんの生き方を尊重し、信じた。
 児玉 そう。おじいさんも親戚の者も皆して、父に「お前は長男を家からよく考えて出せよ」と言ってました。
 でも私は、そんなことはもう耳に入らなかった。(笑い)

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