Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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豊島、台東、墨田、目黒区合同総会 真の人間組織こそ宗教の基盤

1987.12.12 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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22  あたたかな春の慈愛で友をつつめ
 最後に話は変わるが、
  もういくつねると お正月
  お正月には たこあげて
  かまをまわして 遊びましょう
  はやく来い来い お正月(東 くめ作詞)
 これは楽しい正月を、指折り数えて待つ少年の心を、滝廉太郎・作曲のメロディーに乗せて歌った、懐かしい童謡である。
 次元はまったく異なるが、弘安三年(一二八〇年)「師走」の十二月、御年五十九歳の日蓮大聖人が、正月の待ち遠しさをつづられた御抄がある。それは、四条金吾の妻・日眼女にちげんにょに送られたお手紙で、その中で大聖人は次のようにふれられている。
 「歳もかたぶき候・又処は山の中・風はげしく庵室はかごの目の如し、うちしく物は草の葉・きたる物は・かみぎぬ紙衣身のゆる事は石の如し、食物は冰の如くに候へば此の御小袖給候て頓て身をあたたまらんと・をもへども・明年の一日と・かかれて候へば迦葉尊者の雞足けいそく山にこもりて慈尊の出世・五十六億七千万歳をまたるるも・かくや・ひさしかるらん
 ――今年も暮れとなり、押し詰まってきました。ここ身延は、山の中で風がはげしく、しかも庵室はすき間だらけなので、まるでカゴの目のように、風が吹きぬけていくのです。下に敷いているものは草の葉、着ているものは紙の衣、体は冷えきって石のようです。食べものも氷のように冷たい――。
 戸田先生は、この御文を拝されるたびに、厳冬の身延の大聖人の御生活をしのばれて、いつも涙しておられた。
 ――ですから、あなた(日眼女)からいただいたこの小袖(こそで)を、すぐにも身につけ体をあたためようと思ったのですが、あなたのお手紙には″これは明年の一日(元旦)に着てください″と書いてありました。この小袖を着れる元旦が本当に待ち遠しい。それはたとえば、迦葉尊者(釈尊の十大弟子の一人)が、雞足山という山に入って、弥勒菩薩の出現を、五十六億七千万歳もの間ずっと待たれたのも、今の私と同じように待ち遠しかったのではないかと思われるほどです――と。
23  このお手紙は日眼女が白小袖一枚と綿を御供養したことに対して、大聖人が御礼を述べられたものである。
 小袖とは、もともと肌着(下着)のことであったが、鎌倉時代のころから、次第に表着おもてぎとしても着用されるようになった。いわゆる「きもの(和服)」のルーツとなったものである。
 四条金吾夫人の日眼女は、女性らしい心づかいから、大聖人に正月(元朝)の晴れ着として、真新しい、そして純白な小袖を着ていただきたいと思ったのであろう、そのままの気持ちを添え書きして差し上げた。
 いささか皮肉な見方をすれば、添え書きに″ひとこと多かった″のかもしれない。婦人部の皆さま方も、ひとことでなくして、ふたこと、みこと多い場合があるかもしれない。厳寒の中におられる大聖人には、正月といわず、即座に身につけて温まっていただければよかったのである。
 しかし、大聖人は、一枚の白小袖に託して、新年をお祝いしようとする日眼女の精いっぱいの真心を、あますところなくくみ取っておられる。″あなたのいわれる通り、がまんして大切に取っておきますよ″″新しい小袖が着れるお正月が楽しみですよ″と感謝の思いを込めて「心」の琴線にふれる語りかけをされておられる。
 短い御文ではあるが、身延山中の厳寒が痛いほど身に迫ってくる。とともに、いかなる寒風も消すことのできない″心のぬくもり″が伝わってくる。
 大聖人が門下一人一人との「心」のふれ合いを、どれほど大切にしておられたか――数々の大難にも負けなかった大聖人一門の強さの源泉が、ここにもあったとうかがえるのである。
 大聖人の仏法は、厳冬に向かう富士のごとく峻厳である。とともに、春のようなあたたかな″慈愛″と″人間性″に満ちみちた世界である。それは冷たい権威に支配されたり、難解な論理だけに貫かれた世界でもない。また、要領や策で成長できる世界でもない。
 どうか、広布のリーダーである幹部の皆さま方は、″透徹した信心″と″温かき春の心″の光を放ったお一人お一人であっていただきたいと申し上げ、本日のスピーチとしたい。

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