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日蓮大聖人・池田大作

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伊豆広布四十周年記念幹部会 わが境涯を大海のごとく

1987.11.23 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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19  若き日にこそ徹底して学べ
 さて、先ほども少々ふれたが、御書をはじめ日寛上人の文段等を、私も青年部時代に真剣に拝読し、勉強した。法華経も、その要文はすべて暗記するほど繰り返し学んだ。
 戸田先生は厳しかった。「青年部員が、興味本位の低級な雑誌ばかり読んでいるようでは深き仏法は会得できない。またすべての事象を深く正しく見抜くこともできない。長編の古典を読め。歴史を学べ」と、よく叱られたものである。また「その根幹である御書を常に拝するように」と厳しく叱責された。これではじめて指導者に育っていくものだと、いつも厳しかった。
 そうしたなか、若き日より私が暗唱するほど胸に銘記してきた御書の一つに「椎地しいじ四郎殿御書」がある。
 椎地四郎とは、駿東すんとう郡すなわち、この静岡の地にいたといわれる門下で、四条金吾と親交があったようである。諸君と同じく、励ましあいながら広布に進んだ同志であった。また四郎は、大聖人の御葬列には、大聖人の御腹巻を捧げて加わったことが知られている。
 この方に、弘長元年(一二六一年)四月、大聖人は御手紙を与えられている。伊豆に配流される、わずか二週間ばかり前のことであった。
 その一節に「末法には法華経の行者必ず出来すべし、但し大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし、火に薪をくわへんにさかんなる事なかるべしや」と。
 末法には法華経の行者が必ず出現する。現に、御本仏・日蓮大聖人がこうして出現される。ただし、法華経の行者には必ず大難がある、その時こそ、強盛の信心を奮い起こして、いよいよ喜んでいくべきである、と。
 ″来たか、待っていた、さあ戦おう″と、歓喜して進んでいく。それを、少し悪口をいわれたくらいで、悲しみ、嘆き、疑い、グチをこぼし……。それでは本物の地涌の勇者ではない。難があればあるほど、強盛な信心を燃えたたせるさまは、「火」に「薪」を加えれば勢いが盛んになるようなものである、と大聖人は述べられている。小さな火であっては、薪を燃やし切ることはできない。かえって消えてしまう。
 そして「大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや、法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども・かへす事とがむる事なし」と。
 ――大海には多くの河水が流れこむ。しかし決して水を押し返すことはない。「法華大海の行者」に、諸河の水が大難として流れこむけれども、押し返したり、とがめだてすることはない――との広大なる大境界を示されている。
 先ほども、大海について種々、述べたが、大難にいよいよ、喜びを増す人こそ真実の法華大海の行者であり、その胸中には、何ものをも恐れず、何ものをも受け入れて動じない、限りなく広々とした″生命の大海″の世界がある。
 次下には「諸河の水入る事なくば大海あるべからず、大難なくば法華経の行者にはあらじ」と。すなわち、諸河という大難があってこそ、「法華大海の行者」はある。それ以外には絶対にないとの仰せである。
 当然、ここでは別して大聖人のことを指されている。その上で、総じて私ども門下もまた、この伊豆から見る太平洋のごとき壮大なる自身の境涯を開いてまいりたい。
 いかなる難があろうとも、大聖人ほどの大難をうけるわけではない。比べるのももったいないほどの小さな小さな難である。しかも、仏道修行の途上における苦難は、すべて自身の宿命転換につながり、一切が自分のためである。
 それらのすべては、光輝満つ″栄光の人生″の完成への滋養であり、屹立きつりつした″勝利の人生″の軌道を進むための推進力になっていくのである。これが妙法をたもった諸君の大いなる特権であり、生涯をかけて証明していくべき課題である。
20  戸田先生は、かつて「佐渡御書」の講義のなかで、こう述べられた。
 「私も第一回の王難にあいましたけれども、運がよければもう一回あいたいものだと思っている。運がよければです。運がなければ、これっきりです」
 「もう一回王難にあってみたいのです。運がなければ、あえない。王難というのは牢に入れられることです」
 戦中の二年間にわたる獄中生活。その苦しさは牢に入ったものでなければわからない。それなのに戸田先生は、もう一度、法華経ゆえに牢に行きたいといわれている。
 何と偉大な、男らしい信心の一念であられたか。他の誰が、そんな決心で信心を貫いたか。まことに希有けうにして不思議なる大信者の先生であった。これほどすばらしき人生の師匠を、私どもは持ったのである。これ程の誇りはないし、この厳たる事実を忘れてはならない。
 さらに続けて戸田先生は「それからピストルの弾の一発ぐらい、ぶつけられたい」ともおっしゃっている。ただし「なるべく死なないところにあててくれるといい」と。これは戸田先生一流のユーモアである。そして「だが、それくらいのことは覚悟しています。覚悟していなければやれません」と、死身弘法への決意を述べられている。
 ユーモアをまじえながらの話ではあるが、私には、戸田先生の真意が、すなわち死を決意しての広宣流布への並々ならぬ「心」が、強く鋭く胸に迫ってきてならない。
 ともあれ、この伊豆、伊東の地は、永遠に″歴史″と″名誉″と″栄光″に輝く大法有縁の国土である。その地にあって、未来万代にわたる広宣流布の大道を見事に切り開いてくれるであろう若き諸君の尊きかんばせを、私は心に楽しく思いうかべながら、本日の記念のスピーチを終えさせていただく。

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