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日蓮大聖人・池田大作

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「創価班」「長城会」第2回合同総会 苦闘なき青春に栄光なし

1987.11.2 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

前後
27  「十八史略」の中には、現代の日本でも使っている言葉の淵源となったエピソードも多い。「共和」制も、その一つである。
 ――中国古代の王朝、周の第十代・厲王れいおうの時代(紀元前九世紀)のことである。王の余りの暴政に、たまりかねた国民が立ち上がり、王は現在の山西省に逃亡した。その後、二人の大臣が協力して、王のいない国を治めること十四年に及んだ。大臣たちが、「ともに和して」政治を行ったので、この体制を「共和」制と呼んだのである。
 学会は「人間共和」の世界である。信心を根本に、みな御本尊の前に平等である。また今後、諸君の時代には、一人のリーダーの力というよりも、ますます皆の力で、皆の意見を大切にしながら、「合議」と「共和」で進んでいく傾向性が強まっていくに違いない。
 私どもの広宣流布の前進も、もっとも道理にかなった、もっとも根本的な社会貢献の大道である。戦後、戸田先生の確信どおり、創価学会の発展と日本の繁栄とが軌を一にして進んだことは、厳然たる事実である。
 諸君は、この深き大確信に立って生涯、いかなる権力の前でも、正義を訴えつづけていける指導者でなくてはならない。
28  そうした将来のために、最後に戒めとして一言申し上げておきたい。
 それは、今後たとえば、自分は社会的地位がある。有名大学を出ている。また自分の付き合っている人々は、いわゆる上流階層である。自分はそういう階層の人から信用がある。あるいは自分はテレビやマスコミで人気がある――等々と言って、自分を特別あつかいにしてほしいとする人が出るかもしれない。
 これだけの大きな学会であるゆえに、そうした人が現れても、ある意味で不思議ではない。しかし、それらは絶対に「信心」とは何の関係もない。学会員は余りにも人がよいために、私はあえて言っておきたい。
 妙法はどこまでも妙法である。信心はどこまでも信心である。広宣流布の精神は、どこまでも広宣流布の精神である。そして学会は妙法と信心の世界であり、広宣流布の団体である。ゆえに信心強盛な人、現実に法を広め、仏子を守り、広布に進んでいる人こそもっとも偉く尊い人である。これが当然の道理である。
 さらに、私のそばにいたから信用ができるという見方も、これまであったかもしれない。しかし、決してそうとは限らない。率直に申し上げて、自分のために私を利用した者も多くいた。私を利用して、人々を信用させながら、陰に隠れてさまざまな悪を犯した人間もいた。また最高幹部でありながら、五老僧と同じように、信心を失い、″あの人がなぜ″といわれるような退転の姿を見せる者もあるかもしれない。しかし、そういう人間は、一切、信用する必要はないし、また信用してはならないと強く申し上げておきたい。
 ともあれ若き諸君は、未来にわたって尊き広宣流布の「将の将」として指揮をとられる方々である。その二十一世紀の大指導者である皆さまの、栄光と健康と長寿を深く強く祈りつつ、本日の記念のスピーチを結ばせていただく。

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