Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

九州代表者会議 峻厳な行学錬磨の伝統を

1987.10.21 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

前後
22  情報化社会は「知恵」を要請
 一九九〇年代は「知衆化の時代」ともいわれる。民衆は、もはや、かつてのような愚昧ぐまいな民の集団としての″大衆″ではない。一人一人が高度な情報と知識を備えた「知衆」となってきているというのである。
 それだけに、どの世界でも、リーダーは幅広く勉強し、つねに″新鮮さ″をたたえていかなければ、人々に″納得″も与えられないし、″説得力″もえられない時代となった。その意味からも、ますます、さまざまな形での「研修」が大切となってきている。
 しかし、過剰なまでの情報化社会である。そこで銘記すべきは、つねづね申し上げてきたように、「知識」即「知恵」ではないということである。
 いかに知識をもち、情報を収集していても、膨大な情報に流され、かえって、そこに自身が埋没してしまっては、何のための情報かわからない。それらの知識を、自在に使いこなしていく知恵が、もっとも大切なのである。
 その知恵の源泉こそ妙法であり、この情報化社会という荒波も、信心という無量無辺の知恵のカジで自在に乗り切り、悠々と航海していくことができる。ここに、「信心」の醍醐味があるといってよい。
23  元来、「研修」とは学問や技芸などを、″みがき、おさめる″ことをいう。「研」とは″みがく、きわめる″ことであり、″すべて精密にものを仕上げる″意味である。一方「修」は、″おさめる、きよめる″意であり、″塵を払って、きれいに飾る″ことである。
 社会では、さまざまなレベルで、″みがき、おさめる″研修が行われている。が、私どもの研修は、信心を磨き、鍛え、尊極の生命を築き、飾りゆくものである。また、広宣流布という無上の目的のための研修である。その意味から、これ以上の研修はないし、最高に尊き研修であることを申し上げ、本日の研修としたい。

1
22