Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第1回アメリカSGI各部合同記念研修会… 信念貫く勇者の振る舞いを

1987.2.7 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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26  タイタニック号の悲劇。そこに込められた数々のドラマや教訓を、単なる過去の歴史と見れば、それまでである。しかし、「三世永遠」という仏法の生命観に照らして、それらを見る時、正しき人生の生き方へのあまりにも多くの示唆を得ることができる。
 ――目前に「死」という現実と直面した時、人はその奥底の生き方、生命の「我」の実相を如実に浮かびあがらせる。タイタニック号の悲劇においては、遭難という極限状況が、人々のありのままの生き方を鮮明に照らし出してみせてくれた。
 しかし実はタイタニック号の乗客ばかりではない。すべての人間が「死」を絶対的に決定づけられた存在である。誰もが「生死の大海」を航海せざるを得ない。免れ得る人は一人もいない。
 この厳しき「生死の海」をいかに無事安穏に越えゆくか――。それこそが、あらゆる人間にとって最大の課題である。その解決の道を教え示しきったのが妙法なのである。
27  末法の「如渡得船」とは御本尊
 そうした意味から、ここで、妙法が「生死の大海」を渡る大船であることを御教示された御書と経文の幾つかを拝しておきたい。
 法華経の薬王品には「如渡得船」(開結六〇二㌻)とある。「わたりに船を得たるがごとし」と読む。
 生死の苦しみの世界である娑婆世界を「大海」にたとえ、それを渡り切ることができるのは妙法蓮華経の船だけであるとの意味である。他の権経、外典・外道の小船では渡ることができない。
 「弥源太殿御返事」には、妙法のことを「やみには燈となり・渡りには舟となり」うんぬんと仰せになっている。
 また「椎地四郎殿御書」では「此の経を一文一句なりとも聴聞してたましいにそめん人は生死の大海を渡るべき船なるべし(中略)生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」と仰せである。
28  さらに同抄には「如渡得船」について、具体的に次のように仰せである。
 「そもそも法華経の如渡得船の船と申す事は・教主大覚世尊・巧智無辺の番匠として四味八教の材木を取り集め・正直捨権とけづりなして邪正一如ときり合せ・醍醐一実のくぎを丁と・うつて生死の大海へ・をしうかべ・中道一実のほばしら帆柱に界如三千の帆をあげて・諸法実相のおひて追風をえて・以信得入の一切衆生を取りのせて・釈迦如来はかぢを取り・多宝如来はつなで綱手を取り給へば・上行等の四菩薩は函蓋相応して・きりきりとぎ給う所の船を如渡得船の船とは申すなり」と。
 要約していえば、ここで大聖人は、釈尊を巧みな知恵をもった「船大工」に、また爾前の諸経を「材木」に、実教である法華経を材木を船へと形作る「釘」に、たとえられている。不必要な部分を削りとることが「正直」に「方便」を捨てることである。
 結論して言うなれば、末法において、「如渡得船」の船とは御本尊のことである。この船に乗ることができるのは「以信得入の一切衆生」と仰せのように、御本尊を信じきるすべての人々である。
 この妙法という「大船」に乗る時、釈仏・多宝仏、四菩薩をはじめとして、三世十方の仏菩薩に守られつつ、波荒き「生死の大海」を、悠々と楽しみ切って渡っていくことができる。御本尊以外の他の「小船」では決して成仏という彼岸に至ることはできないのである。
 その最後の目的地に達するまで、何があっても、妙法への確信強く、自行化他にわたる不退の実践を貫き通していただきたい。そして御本仏・日蓮大聖人から、また三世十方の仏菩薩から、称賛される誉れの信心と人生を全うしていただきたい。そのために本日の私の指導が何らかの参考になれば幸いである。
 最後にアメリカSGIの大切な友のますますの活躍と栄光の人生そしてアメリカ広布の一段の発展を心より念願し、本日の私のスピーチとしたい。

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