Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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東京・神奈川の記念合同本部長研修会 仏法は″人格″尊ぶ行動のなかに

1986.11.29 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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24  心の卑しく、濁った人は、他人の正しさ、すばらしさを認めたくはない、常に自分が正しく、自分がすぐれていることを吹聴したいという困った人である。また、人の幸福を喜ばない。反対に人の不幸を喜ぶ人である。
 怨嫉の人も、またそうである。信心強盛な人は、日増しに幸福になっていく。その姿がうらやましい。だから、その姿を破壊したいという哀れな心である。結論するに、正法正義の信仰に対し、さまざまな非難がでるのもやはり成仏、幸福を妨げたいという「嫉妬」の心から生ずるのである。
 また、信心の世界においても、退転したり、成長のとまった人は、まっすぐに向上している人をみてうらやんだり、それを妨げようという心を生ずるのである。
 ともかく、卑しく濁った心の方へ向かうのではなく、清らかな正しい幸せの道の方へいくことを忘れてはならないし、また、そのようにご指導をお願い申し上げたい。
25  さて仏典には、イソップ物語などに似た動物に仮託かたくした比喩が多い。とくに、人間の本性のなかの醜悪さ、愚かさを説く比喩にこの例が多くみられる。
 実際には動物にそんな心の働きや感情があるわけではなく、ただ本能のまま行動しているのであろうから、動物には少々気の毒な気がする。自分たちには、人間のようなそんな″悪魔の属性″はないのに、といって抗議されるかもしれない。
 それはともかく、一つの例を紹介する。
 あるところに、五百匹の豚を引き連れた大きなボスの豚がいた。配下を連れて険しい山道にさしかかったところ、向こうから、一匹の虎が悠々とやってくるのに出会った。
 ボスの豚は虎を見るなり、心中に恐れを抱いた。
 ″もしここで虎と戦えば、俺より強い虎に必ず殺されるだろう。かといって、逃げ出せば、配下の連中がボスは弱虫だと軽蔑するにちがいない。なんとか、この危難を免れる方法はないものか″と。
 そこでボスの豚は、カラ威張りして虎にいった。
 「おい君、君が闘争を欲するならば俺も大いに戦おうではないか。君に戦う気がないのなら、俺を無事に通してくれ」と。すると、虎はこしゃくなやつ、と思い「望むところだ。戦ってやろう」と答えた。
 困ったボスの豚は「それでは、しばらく待ってくれ。戦うためには、俺の祖先伝来のよろいで身を固めなければならないので」といって便所へ行き、ふんを全身に塗って再び虎のもとへ戻ってきた。
 そして「さあ、支度ができた。戦うか、それとも道をあけるか」と叫んだ。虎はその汚さ、臭さに閉口して道をゆずった。豚は虎の前を通り過ぎたあと、虎に向かって「来い、戦おうではないか。お前はなぜ恐れて逃げるのか」と豪語した。
 しかし、虎は次のようにいって相手にしなかった。「お前は畜生中の最下等なり。速やかに去れ、糞の臭い耐え難し」と。
 世間にはこの豚のように欲心と保身に終始し、善を憎み自分の身を汚したうえに、周囲の他人をも同じ汚臭おしゅうのなかに引き込むことだけを生きがいにしているような人物がいるものだ。
 末法の濁世に生きる以上、私どももそうした人々とまったく無縁でいるわけにはいかない場合がある。だが、その品性を欠いた低劣な生命の本質だけは鋭く見抜いていきたいものである。
 どうか皆さまが今までの人生で最高に晴やかで、楽しく有意義な素晴らしい正月を迎えられることを心よりお祈り申し上げ、本日の私の話とさせていただきたい。

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