Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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全国総県長会 迫害こそ正義の証

2001.9.6 メッセージ集(池田大作全集第67巻)

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2  希望を見出せ! 希望をつくれ!
 正しい人生とは? 価値ある人生とは?
 哲人の言葉に耳を傾けたい。
 アメリカの思想家デューイは言う。
 「人間と云うものは、愛情、慈悲、正義、平等、自由等に向う已むに已まれぬ力を持っている」(『誰れでもの信仰』岸本英夫訳、春秋社)
 ロシアの文豪トルストイは呼びかける。
 「善をなす喜びを学びおぼえるがよい」(『人生の道』下、原久一郎訳、岩波文庫)
 気をつけよ。「大抵のひとは、しかし、号令の権力、栄誉、名声への欲に襲われると、思わず正義を忘れてしまう」(『義務について』泉井久之助訳、岩波文庫)。ローマの雄弁家キケロの警句である。
 思い起こせ。『英雄伝』で知られる文筆家プルタークは、ローマの政治家カミーラスについて「貴族とともに政治に参与したときよりも、民衆とともに戦ったときのほうが、はるかに偉大な事功をたてたではないか」(『ブルターク英雄伝』鶴見祐輔訳、岩波文庫)と。
 大事なのは何か。古代ギリシャの哲学者エピクロスは断じた。
 「君は哲学に仕えねばならぬ――真の自由が君に与えられるために」(『道徳書簡集』茂手木元蔵訳、東海大学出版会)
 正しい哲学に生き抜いていく。そこに自由がある。希望がある。永遠の幸福の軌道がある。
 ウクライナの女性の詩人、ウクラインカは歌っている。
 「そう! 悲しみにあっても、私は歌を忘れない。陰気な夜にも、ほほ笑むのだ。
 希望なきところに、希望を見出そう。私は生きる! 去れ、悲しみよ。去るがいい」(Леся Украинка, Стихоотворения. Позмы. Драмы, Библиотека всемирной литературы, Серия третья, Том 157, Художественная литература)
 希望は自分がつくるもの。希望は自分の中にある。信仰とは「無限の希望」である。
3  「嫉妬」は慢心の裏返し
 最極の正義の人である法華経の行者が、なぜ迫害されるのか。
 「嫉妬」のゆえである――そう「種種御振舞御書」に仰せである。
 「鹿は美味のゆえに人に殺され、亀は油がとれるゆえに命を奪われる。女性は容姿が美しければ嫉む者が多い。国を治める者は他国に攻められる恐れがある。財のある者は狙われて命が危ない。
 法華経を持つ者は必ず仏になる。ゆえに、第六天の魔王という三界の主が、法華経を持つ人を強く嫉むのである。この魔王は、あたかも疫病の神が、だれの目にも見えずに人に取りつくように、古酒に人が酔い入ってしまうように、国主・父母・妻子に取りついて、法華経の行者を嫉むと経文に見える。これと少しも違わないのが、今の世相である」(御書925㌻、通解)と。
 美しいから、力があるから、豊かだから、幸せだから、正しいから、妬まれるのである。
 御本仏さえ妬まれた。いな、御本仏だからこそ、最も妬まれ、最も大きな難を忍びながら、全人類のために、究極の幸福と平和の大法を残してくださったのである。
4  釈尊が大難にあった背景も、一つは、提婆達多の嫉妬であった。
 大聖人が提婆のことを「名聞利養深かりし人」、「提婆そねむ心深くして」等と喝破されている通りである。
 戸田先生も、提婆の本質は「男の嫉妬心」であると厳しく言われた。
 「法蓮抄」には仰せである。「(仏の立派な姿を)諸の天人は渇仰し、すべての仏法の信仰者たちは恭しく敬った。しかし、提婆達多を人は貴ばなかったので、(提婆達多は)何とかして仏を超える世間の名誉を得たいと懸命になった」(御書1041㌻、通解)
 狡猾な提婆の陰謀は、いったんは成功した。提婆のほうが釈尊よりも勝れている、両者には雲泥の差があると、世間が欺かれたほどであった。さらに、慢心し、思い上がった提婆は、釈尊を亡き者にして、釈尊に対する供養も、教団も乗っ取ろうとたくらんだ。阿闍世王を仲間に引き入れ、悪逆の限りを尽くした。最後は、その大罪で地獄に
 堕ちていった。
5  大聖人は、良観の僣聖増上慢の本性を、経文に照らして、こう仰せである。(御書350㌻)
 「持戒の僧」とされてはいるが、実際は「放逸(勝手気ままで、だらしがない)」。また「慳貪(欲が深い)」「嫉妬」「邪見」「婬乱」であると。
 良観の実態は「この五事のうちに必ず入るであろう」と痛烈に断じておられる。
 こうも仰せである。「小乗の倶舎宗・成実宗・律宗の僧侶などが、(より多くの人々を救っていくことのできる)大乗を嫉む胸の瞋りは、(須弥山のように高くそびえる仏教をも焼き滅ぼす)炎である」(御書286㌻、通解)
 胸に燃えさかる「嫉妬の炎」が、正法を破壊すると警告しておられる。
 「嫉妬」は、慢心の裏返しでもある。
 「御義口伝」には、「自分自身を反省することができない」のが慢心の一つであるとの釈が引かれている。(「自ら省ること能わざるは我慢を釈す」)
 人がどうあれ、自分を向上させていけばよい。しかし、嫉妬と慢心の人間は、自らを謙虚に見つめることができない。
6  嘘や讒言は健全な社会を破壊
 マハトマ・ガンジーは、つづった。「平和の道は真理の道である。真理であることは、平和であることよりもはるかに重要でさえある。実際、虚偽は暴力の母である」(『非暴力の精神と対話』森本達雄訳、第三文明社)
 嘘や讒言は、麗しい人間関係を破壊する。健全な社会を破壊する。嘘は、嫉妬の人間の常套手段である。
 釈尊も、まったく虚偽の醜聞を吹聴された。外道にそそのかされ、衣服の中に鉢を入れて腹をふくらませた女性に、「あなたの子を身ごもった」と公衆の面前で誹謗された。(旃遮女の謗)
 あまりにも高潔で尊貴な人を貶め、汚そうとする、卑劣極まりない嘘であった。
 大聖人も、「犯僧」という悪名を喧伝された。
 (「只法華経を弘めんとする失によりて妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち」)
 大聖人への迫害の裏には、悪意に満ちた讒言・中傷があった。
 御書には、「日蓮は、身に傷を被り、弟子らの殺害は数百人に及んだ。これはひとえに良観、念阿、道阿らの上人(と崇められていた者)の大虚言から出たのである」(御書182㌻、通解)と仰せである。
 さらに大聖人は、邪教にたぶらかされた女性が権力者に讒言したことも明確に述べられている。
 「(日本国の一切の女人を)救おうとしている日蓮を、かえって大怨敵と思われるゆえに、女人たちが、こぞって国主に讒言をして伊豆の国に流したうえ、また佐渡の国にも流したのである」(御書1312㌻、通解)
 学会に対する「迫害の構図」も同じである。一、迫害は、創価学会が「大聖人正統の教団」である証拠である。御書には仰せである。
 「釈尊の在世の時は、濁世であるとはいえ、五濁のはじめであったうえに、魔は、釈尊のお力を恐れもしたし、人の貪、瞋、癡、邪見という濁りも盛んでない時であった。それでも、竹杖外道は神通第一の目連尊者を殺し、阿闍世王は狂暴な象を放って、この三界で抜きん出て尊い釈尊を脅し、提婆達多は声聞の最高の証果を得た阿羅漢の蓮華比丘尼を殺害し、瞿伽利尊者は智慧第一の舎利弗に悪名を立てた。
 ましてや、次第に五濁が盛んになった仏滅後の世においてはいうまでもない。ましてや、世も末法に入った今日、法華経を、かりそめにも信ずる者が人に嫉まれ、妬まれることは、おびただしいであろう。ゆえに、法華経には、『如来の現在ですら、なお怨嫉が多い。まして仏の滅後において、いっそう多いことは言うまでもない』とある。初めにこの経文を見た時は、それほどまでもあるまいと思っていたが、(流罪された)今になって、仏の言葉は間違っていなかったのだなと、とりわけ自分の身に当てて思い知ったのである」(御書936㌻、通解)
 今、私どももまた、法華経の通り、御書の通りに、広宣流布を断行しているゆえに、嫉まれ、妬まれ、誹謗されてきた。迫害は、偉大なる正義の証なのである。
7  戸田先生”汝自身に力をつけよ 悔いなき信念をもて”
 大聖人は、日本を“嫉妬の思いが甚だしい”国と見ておられた(御書544㌻)
 その「嫉妬の国」で戦う創価学会の正義を、世界の第一級の知性は、心から理解し、賛同し、擁護してくださっている。
 「平和と文化の輪を日本へ、世界へと広げる創価学会の活動を批判する宗門は、近視眼的であり、盲目的であるとさえ言うほかありません。何が宗門を盲目にさせるのかと聞かれたら、私は『それはジェラシー(嫉妬)が、そうさせるのだ』と答えざるをえないでしょう」
 これは、アメリカの教育者であり哲学者、ノートン教授(デラウェア大学)の言葉である。今は亡き教授の「遺言」ともなった。
8  戸田先生は、私に言われた。
 「人間の妬みほど、恐ろしいものはない。人間の魔性ほど、怖いものはない。ゆえに、汝自身に力をつけよ。汝自身に悔いなき信念をもて!」
 この言葉を、わが愛する青年部の皆さんに、そのまま贈りたい。
 「正義を高く掲げよ!」「勇気を忘れるな!」と申し上げたい。
9  再び御書を拝したい。
 「日蓮は、日本国の中でただ一人、南無妙法蓮華経と唱えたのである。
 これは、須弥山という大山をつくる最初の一塵であり、大海をつくる最初の一滴の水である。
 (妙法を唱える人は)二人、三人、十人、百人、そして(日本の中の)一国、二国、六十六カ国まで弘まり、すでに(壱岐、対馬の)二島にまでおよんでいるであろう。今は日蓮を誹謗した人たちも唱えるであろう。また日本国の上一人から下万民にいたるまで、法華経の神力品で説かれているように、一同に南無妙法蓮華経と唱えることもあるであろう」(御書1241㌻、通解)
 御本仏の言葉は絶対である。広宣流布は、必ずできる。今こそ、大いなる躍進のチャンスなのである。
10  「行動の人」は美しい
 人生は戦い、仏法は戦いである。大きな苦悩を突き抜けてはじめて、人生の喜びと深さがわかる。ゆえに前へ進む
 ことだ。行動することだ。それを哲人は教えている。フランスの哲学者アランは言った。
 「およそよい行動というものは、それ自身美しく、また人間の顔を美しくするものだ」(『幸福論』串田孫一・中村雄二郎訳、白水社刊)と。
 行動する人は美しい。
 イギリスの女性作家、エミリ・ブロンテは、「謙虚な人たちとともに わたしはいたい 傲慢な輩は わたしにはまったく無用の者」(『エミリ・ジェイン・ブロンテ全詩集』中岡洋訳、国文社)と。我らも、同じ精神で進む。
 チェコの哲人政治家・マサリクは、私が対談した、ハベル大統領やクーデンホーフ=カレルギー伯(欧州連合の“生みの親”)が、師と仰いだ人物である。
 マサリクは言う。
 「我々の民主主義は絶えざる改革、絶えざる革命でなければならず、頭と心の革命でなければならない」(石川達夫著『マサリクとチェコの精神』成文社)
 「頭と心の革命」――すなわち「人間革命」こそが、新しい「民衆の時代」を開いていく。
 アメリカの公民権運動の偉大な指導者、キング博士は毅然と語る。
 「人間は、各自の狭い、個人的な関心事という枠を超えて、より広い全人類の関心事に心を向けたとき、初めてこの世に生きていると言える」(C・S・キング編『キング牧師の言葉』梶原寿・石井美恵子訳、日本基督教団出版局)
 インドの詩聖タゴールの洞察は味わい深い。
 「人間が自分の人生から学び取ることのできる最も重要な教訓は、この世には苦しみがあるということではなく、苦しみを活用するかどうかはわれわれ次第であり、苦しみは喜びに変わるということである」(『サーダナ』美田稔訳、『タゴール著作集』8所収、第三文明社)
 そして、ウクライナの詩人、ウクラインカは、高らかにうたう。
 「言葉よ、私は汝を、稲妻の閃光のごとく、鋭き刀のごとく育てたかった......闘うのだ。切れ、打ちのめせ......言葉よ、くすぶるな、炎と燃えるのだ」(Леся Украинк, Стихотворения. Позмы, Драмы. Библиотека всемирной литературы, Серия третья, Том 157, Художественная литература)
 あらゆる困難を乗り越えて、世界広宣流布という「人類の希望」に向かって、語りに語り、行動し抜く人生であっていただきたい。
11  21世紀は、「生命の世紀」であり「健康の世紀」である。
 暑かった夏の疲れが出る時期である。睡眠時間を十分にとり、寝不足にならないよう、疲れをためないよう、気をつけていただきたい。朝な夕なに読誦している法華経寿量品には「慧光照無量寿命無数劫」(慧光照らすこと無量にして 寿命無数劫なり)とある。
 それを確信し、智慧を輝かせ、大生命力を、わが胸中に湧き出しながら、ますます健康で、長生きして、さらなる広宣流布の上げ潮の指揮をお願いしたい。
 来る日も来る日も、若々しく、広宣流布の同志と会い、励ましていくことだ。
 広布の後継者を立派に伸ばし、育てていくことだ。
 生き生きと「拡大また拡大」のドラマを広げていただきたい。
 各方面、各県の誉れの同志に、くれぐれもよろしくお伝えください。
 悠然と、また断固として、戦い進んでまいりましょう!
 (創価文化会館)

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